中国へ―平和と友好の旅

平頂山で証言を聞く

平頂山の大虐殺

 瀋陽では市内にある博物館や、郊外の記念館、撫順の戦犯記念館など、ここでもまたたくさんの戦跡の見学で、強烈な事実と向かい合わなければならなかった。最初に、大変なショックを受けた平頂山遺骨館でのことを話さなくてはならない。

 瀋陽郊外にある平頂山遺骨館は、村人全員三千人が虐殺された場所そのもので、普通の博物館と違い、発掘されたおびただしい犠牲者の遺骨の上に建築されたものだ。当時の残酷な姿がそのままそこにあった。

 子どもの上にかぶさっているのは母親か、妻と子を守るようにかぶさっている骨は父親であろう。大きく開けた口から、恐怖の叫び声が聞こえてくる。無残に奪われた、数え切れないそれぞれの命の慟哭が遺骨館に満ちていた。

 この虐殺はみせしめだった。抗日ゲリラにふいをつかれて撫順炭鉱を攻撃された日本軍は、平頂山の住民がそれを知っていて抗日ゲリラを通過させたと理由をつけて皆殺しにしたのだ。

 機銃掃射で飽き足らず息のある生存者を死体の中からつぶさに探し、銃剣で刺し殺したのである。三千人の大殺戮だから、ガソリンで焼いただけでは死体の処理ができなかった。ダイナマイトで崖を崩して死体を埋めた。しかし逃げ延びた人がいた。脱出に成功した人は一九九一年の調査では三十人になっている。

 消えた中国の村のことは、日本では一般には長いこと知られることがなかった。本多勝一の「中国の旅」のルポルタージュ(一九七一年)がきっかけとなってやっと明るみに出た。

証言をしてくださった楊玉芬さん(左)とお孫さん

 今回は、生き延びた一人、楊さんの証言を聞くことができた。楊さんは今まで証言を拒んでいた。辛くて話せなかったと言う。しかし、生存者がつぎつぎ亡くなり語るものがいなくなってきた時、彼女は語りしたのだと、ガイドさんが話してくれた。「今日話すると、しばらくは心がだめになってしまうのですよ」とも。

 楊さんの証言は、時々涙でつまり中断し、また、静かに口を開いた。私も、楊さんとともに涙が落ちるのを抑えることが出来なかった。

楊さんの衝撃的な証言

楊玉芬さん八十一歳(当時八歳)

 「一九三二年九月十五日のことだった。寝ていたら外から叫び声が聞こえました。馬賊か、と思って逃げました。しばらくして戻ってきたら、私たちがいない間に日本軍が村に入ってきていていました。平頂山は村が二ヶ所に分かれていました。柵があって、炭鉱の労働者がそちら側に住んでいました。

 軍隊が入った時、何のために来たのか、解りませんでした。

 ふもとに乳牛小屋がありました。トラックが来て、「団体写真を撮りましょう」と言いました。乳牛小屋あたりに集まりました。

 父が途中で家に戻って服とお金を持ちに行きました。行く途中親戚とはなしていたら、…(通訳が聞き取れなかった。)日本人が「朝鮮族は出なさい」と言いました。布で覆われた写真機と思っていたものは、実は機銃器でした。私たちはりんごを食べて待っていましたが、機銃器で打ち始め、叫び声、泣き声がおきました。

 父が私を、母が妹をかばいました。山の上にも機銃器がずらっと並んでおり、ふもとにいた私たちは、逃げようがありません。十時ごろ機銃器操作が始まりました。

 午後飛行機の音がしました。飛行機が爆弾を落としたら助からないと思いました。死体の間から見ました。でも爆弾は落とさなかった。「落とさなくてもいい。みんな死んだから」との合図があったらしいです。

 死体の間から人が声をあげました。その声を聞き、日本軍は生存者を探し、銃剣で殺しました。みんな殺しました。

 お母さんはその場で死んでしまいました。お父さんも負傷しました。子どもに「生きているか、逃げろ」といいました。

 日本軍がいったんいなくなった隙に逃げました。妹は四歳で、泣きました。父は二人を連れて逃げました。

 逃げながら、村を振り返れば、火と煙です。高粱畑で一晩過ごしました。他の村に行っても泊めたらそのうちの人も殺されます。

 撫順に逃げました。九月十七日、平頂山から逃げたものは全部殺すと張り紙が出されました。

撫順から、郊外の父の友人宅へいって助けてもらいました。八元持っていたので、それで家を借りました。

家族は二十四人いたのに、生き残ったのは六人だけ、私と妹と父、父の(?)兄弟とおばさんの子です。今、六人のうちで生きているのは私だけになりました。」

 平頂山出身の人は縁故を頼り、また乞食をして生き延び、開放されるまで身分を明かせなかったと言う。「朝鮮族はでなさい」と言ったのは、日本が朝鮮を併合していたので、助けるように裏工作が在ったのではないかと言われている。

 楊さんはお孫さんに付き添われてきてくださった。若いお孫さんは日本人をどう見ているのだろうか、二人の写真を取らせていただきながら考えてしまった。私は感謝をこめて、楊さんと硬い握手をかわしたが、万感迫るものがあった。