中国へ―平和と友好の旅

撫順にて

露天堀の炭鉱

 平頂山村近くにある撫順の炭鉱は圧巻だった。南北二`、東西六・六`、深さ三百bの巨大なこの炭鉱は日本のとは全く異なり、坑は造らずに露天掘りである。広大な炭鉱内には列車も走っていた。

撫順露天掘炭田

 平頂山にはここの労働者も住んでいた。大虐殺後、撫順に住んでいた人も恐れをなして逃げたため、炭鉱の労働力に困ったとのことだ。鉄、石油、石炭と、東北地方は豊かな資源にめぐまれている。日本は世界侵略のためにこの資源を略奪したのだ。

 アメリカのイラク戦争の理由である、石油の利権争いも全く同じである。侵略者は、性懲りもなく同じことを繰り返しながら墓穴を掘っていく。現にブッシュ政権は、「うそつき」のニックネームを世界中に見事にとどろかせ、世界の信頼を全く失ったではないか。日本の政府もまたしかりである。

馬車に乗った夫婦

 晴天だったのにもかかわらず炭鉱付近は空気が汚れていて、かすんで向こうが見えにくい。炭鉱を上の道から見下ろして見学していたが、向こうから農家のご夫婦らしき二人が乗った馬車がやってきた。

 この町ではクラシックなバスと馬車が違和感なく溶け込み、田舎の風景をかもし出していた。馬車が近づくのを待ち構えて向けた私のカメラに応えて、二人はにっこり笑ってくれた。助け合って農業をしている姿がにじみ出た、夫婦の笑顔だった。

撫順戦犯管理所で

 この戦犯管理所はもともと、日本が「満州国」時代に反日活動家を投獄するために作られたものだ。一九四五年、戦争終結後ソ連と中国の首脳会談の結果、中国戦犯を受け入れる戦犯管理所と改まった。

 「七三一部隊」で紹介した篠塚良夫さんが収容されていたところでもある。篠塚さんは「通化事件」がきっかけで人民解放軍と行動をともにするようになったが、自分が七三一部隊の隊員とは解放軍にはとても言えなかった。日本軍が行った残虐非道な行為のなかでも、七三一部隊の罪業はその最たるもの、捕虜の人格を大切に扱った解放軍とて決して許してはくれない、と篠塚さんは考えていた。

 だが、新政府誕生三年後の一九五二年、自首を決意し、中国政府に逮捕され、中国戦犯としてここに送られてきたのである。陳列館には、彼の名前も記録されていて、事実として迫るものがあった。ラストエンペラー溥儀も、ここでの教育で一般市民に「改造」されていく。

 敷地の入り口に、「抗日殉難烈士への謝罪碑」が建っていた。戦犯管理所で「人間」になった篠塚さんら戦犯が、釈放後結成した「中帰連」で建てたものだった。毎年ここを訪れていると、館の責任者が話してくれた。

敵の子を育てる愛はどこから

 一昨日の十月二十八日、長野県内の中国残留孤児とその遺族が起こした国家賠償訴訟の第一回の口頭弁論が長野地裁で行われた。戦争が与えた、今なお癒えることのない孤児の皆さんへの人権侵害に対し、国の誠意をもっての保障は当然のことである。

 残留孤児のみなさんは、一人ひとり違う環境におかれ、「大地の子」の陸一心のように恵まれて育った人だけではなく、陸一心の妹のように、辛い一生を送った人もいたに違いない。しかし、祖国を奪い肉親を虐殺した日本人の子を、わが子のように、いやそれ以上に育ててくれた中国人がたくさんいたことは事実だ。

 私の知り合いのAさんは数年前に中国から帰国した。帰国しようと思えばできる条件はあったのに、しなかったわけは、高等教育まで受けさせてくれ、文革の嵐が吹き荒れた時代には、「日本人鬼(リーベンクイズ)」と迫害を受けた自分を必死に守ってくれた、老いた義母を捨てて来ることはできなかったのだと話してくれた。

 この中国人の広い愛はどこからうまれたのだろうか。戦犯の人権をも大切にした、解放軍の考えがそこにもあったのだろうか。

戦犯も元は同じ貧しい人民

 撫順の戦犯管理所では、戦犯は人格を尊重された。管理所の職員は、自分たちは高粱飯と粗末なおかずでも、戦犯には暖かい白米、肉や魚や野菜たっぷりの料理を出した。「死刑の前触れだ」と戦犯はおののき、初めは信用せず、大変な抵抗で威張り当り散らしあばれたという。

撫順戦犯管理所

 しかし、そうした戦犯の凍りついた心を次第に解かして、人間性を思い起こさせる、人権を尊重した扱いがあったことは、篠塚さんの「日本にも戦争があった」の中で、感謝の念で書かれている文をみても良くわかる。

 憎悪の対象である日本の戦犯が、自分たちより豊かな食事をとり、医師による健康管理も手厚く、日本風お風呂も床屋も、映画や読書やスポーツもとり入れた人間らしい生活を保障されたのである。

 実際、理髪室などもそのまま保存されており、見学しながら、捕虜の生活を想像した。解放軍の捕虜政策の根本には「日本軍の兵士の大部分は貧しい農民、労働者である。支配階級によって間違った教育をされたのだから、元はわれわれと同じ立場。人間として大切にし、新しい教育をすることで、時間はかかっても必ず生まれ変わる」との考えがあった。

 管理所の職員が戦犯の待遇に対して、不満、憎しみを持ったであろうことは容易に想像できることだ。しかし、彼らは、学ぶことで深い人間愛を育て、それを乗り越えていった。人民の幸せのため、国の独立開放を戦った解放軍のもとで、戦犯は人間性を回復し、中国人民は学ぶことによって日本人を許してくれた。

 学ぶことがこんなにも人を優しくするものなのだと、心が熱くなる。

 開放直後の中国は、まともだった。その後、「文革」の嵐がやってきて、一九九八年まで、三二年間の長きにわたって、日本共産党は中国との断絶時代を迎えることになる。