中国へ―平和と友好の旅

長春から瀋陽(当時の奉天)へ

「旧満州鉄道」に乗る

 一九〇五年、日露戦争終結によるポーツマス条約で日本が手にいれた東支鉄道は、「南満州鉄道株式会社」の設立によって東北地方全域に鉄道網をはりめぐらせた。開業当初は一千百キロメートルだった距離も、第二次世界大戦末期には一万キロ以上にもなっている。「満鉄」は撫順での石炭の露天掘り、鞍山製鉄所も操業し、豊富な資源をむさぼって侵略を推し進め、侵略によって大儲けしたのである。

 列車に乗ることひとつにも、私は日本人であることを意識せざるを得なかった。侵略の事実の痕跡が、日本に厳しく反省を迫っていることを体で感じるのだ。

 ご一緒した太田勇さんのお父さんは、技術者として瀋陽(奉天)にいたそうである。長野県の前田鉄工が奉天の駅前にも進出して、ボイラーやラジエーターを作っていたとのこと、かつては「天下の前田」といわれていが、なるほどと改めて大きな会社だったことを認識した。

 太田さんは、どの街にいっても、ボイラーやラジエーターを見つけては、メーカーネームを調べていた。ネームは削られていたり消えていたりで前田製は発見できなかったようだ。太田さんもまた、自社の製品に自信を持つ、ものづくりの前田鉄工の労働者だった方だ。労働者魂を見るようだった。

 列車の中では、そんな話にも花を咲かせた。列車には「軟座(グリーン車)」と「硬座(普通車)」があって、私たちは「軟座」に乗って長春を立ち、列車は瀋陽へと向かった。走ること四時間。

列車は珍しいことで溢れていた

ポットの置いてある旧満鉄の「軟座(グリーン車)」

 軟座(グリーン車)といっても、日本の新幹線のイメージとは違って、列車が古いこともあり日本の普通車ぐらいである。しかし通路には薄いじゅうたんが敷かれ、ワンボックスにひとつの割合でステンレス製のポットが座席の横に置かれていた。何のためかなと思っていたら、車内販売で扱っているカップラーメンのためのお湯だった。

 缶ビールは扱っておらずビンだけ、車内販売のおばさんに紙コップを要求したら、一元(十三円)取られた。有料なのだ。コップはすぐにへなへなしてしまう代物だったが。到着近くなった時、乗務員がじゅうたんをはじからくるくると丸めにきて、瀋陽に着いたときにはきれいにかたづいていた。ごみの回収も早々に始めたのにも驚いた。

 日本ではお客が降りてから、短時間で猛烈な速さで列車内をお掃除してくれる。

 また、最近では、車内で出した自分のごみはホームのダストボックスに自分で捨てるようになっている。当たり前のことだし、しかも合理的だから、良いシステムだとあらためて思った。だって、回収されたごみは、おびただしい量だったのだ。

 さて、回収の仕方だが、紙のごみも汁の残っているカップラーメンの器も、驚いたことには中身が残っているビールビンも空にせずにそのまま、全部いっしょくたにして黒い袋に押し込んだのである。

ごみを運ぶおじさん

 瀋陽の駅に着いたら、ボックスのついたリヤカーを引いた男性が待っていて、満杯の黒いごみ袋を山のように乗せて運んでいった。この先、あのごみの運命は一体どうなるのだろうか。どうやって弁別するのだろうかと、ひそかに心配してしまった。 ごみ処理のおじさんにカメラを向けたら、ひとなつこく笑って応じてくれた。

 観光客の乗る「軟座」はお土産品の格好の売り場にもなっていた。電気のつくボールペン、ヨーヨーやコマ、中国独特の飾り物など、数人の乗務員と思われる男性が実演入りで売り込みに必死。物売りではどこにいっても、売るほうも必死だったが、断る私たちも必死であった。虎の巻で覚えた言葉「プーヤオ(不要)」が役に立った。

 中国人はなかなか商売上手である。初めは法外な値段を仕掛けてくる。上手に交渉すれば半値くらいまで値はさがる。また、用心しないと、騙されることもある。「掛け軸などは目が利かないと、とんでもない物をつかまされるから気をつけなさい。」と湯さんが忠告してくれた。観光地ではどこでもありうることだが、食べることで必死な姿でもあろうと思った。

 窓の外は、北海道でもとても及ばない、どこまでも果てしなく続くもろこしと高粱の畑だ。

 広大な大地の地平線に夕日が真っ赤に燃えて沈んでゆく。

「なぜ日本人は」と問い詰められて

 前にも少し触れたが、同席した中国人の方と、ガイドの湯さんの通訳で話しをすることができた。質問攻めにあった。

「なぜ日本は侵略したのか、今も侵略と同じことをしているではないのか」

「731部隊のことをなぜいままで黙っていられたのか」

「教科書はうそを書き、(「新しい教科書をつくる会」の教科書のこと)靖国神社を参拝するなんて、日本人は戦犯について一体どう考えているのか」

 「戦死した人への国の扱いはどうか。中国では烈士として大切にされている。」などなど、日本政府にたいする厳しい詰問だった。

 会話に参加していた私や宮崎市会議員、小林市会議員は、政府と国民の考えはずれていること、圧倒的多数の国民は戦争で皆さんと同じように辛苦をなめてきたこと、政府の露骨な戦争政策に反対し、「九条」を守る運動が全国に広がっていることなどを、一生懸命伝えた。

 こちらからの質問「市場経済の導入についてはどうか」には、「今はなんとも言えない。」と慎重に見守る姿勢であった。「中国は日本と比べて何年くらい遅れているか」との、難しい質問もあった。

 最後に彼は「日本共産党の不破議長はすごい。」と誉めてくれたのには驚いた。

 ちょうど一ヶ月前、北京でアジア政党国際会議が開かれたばかりで、三十五カ国から与党野党を問わず、八十三の政党が集まり、二十一世紀のアジアのあり方についての話し合いが行われた。

 「五十年前のアジアアフリカ会議で出されたバンドン宣言の精神を思い返し、アジアはひとつになって、国連憲章をまもり、平和友好の世界を創るために貢献しよう。そのなかでこそテロリズムは根絶してゆく。公認されている政党は思想の違いで差別しない。」

 このような内容の「北京宣言」が高らかに打ち出された。

 この格調高い「北京宣言」が出される源になったのは、不破議長の発言だった。画期的で希望の持てる不破議長の発言は高く評価され、その日のうちにマスコミが中国中に報道した。

彼は、それで知っていたのである。

 「日本共産党は平和を守る党だ。それにしても前の選挙で議席を減らしましたね。大丈夫ですか。」と心配までしてもらった。気持ちが通じ合った楽しい会話がはずむ中、列車は瀋陽に到着した。