中国へ―平和と友好の旅

長春に入る

かつての「偽満州国」の心臓部

侵略時代は「新京」であった長春は、ハルピンから車で三百六十`、「満州国」時代の政府の心臓部となった街で、国務院と八大部(軍事部、司法部、民生部、交通部、興農部、経済部、外交部、文教部)だった建築物、それにかいらい政権となったラストエンペラー溥儀の皇宮跡が陳列館としてあるなど、歴史的な建造物が建ち並んでいる。

皇宮陳列館 ラストエンペラー溥儀の間

 長春のガイドさんは李香善さんという女性で、湯さん同様に大変流暢な日本語を使い、ユーモアたっぷりの人だった。元は教師をしていたそうだが、ガイドのほうがお金になるので転職したという。国際的なガイドは、中国では大変尊重されているようだ。

 「名前は李香蘭さんとちょっと違うだけ、そう覚えれば忘れません」

 そのとおりで私もこのとおりしっかりと覚えている。彼女はホテルでの夜の交流会にも参加してくれたさばけた人だった。

 彼女の案内で見た関東軍司令部邸(現在は松苑賓館)や国務院(現在白求医科大学基礎部)などの、石やレンガ造りの重厚な建築物に、私は関東軍が我が物顔で闊歩していたであろう過去を連想した。

義母が住んでいた街

 夫の両親は当時この街に住んでいた。義母は亡義父とのお見合いがあったときに、「百姓をしなくてすむなら」と結婚を決めこの街に来たという。当時、日本の農業は生糸の値段の暴落で大恐慌となり、養蚕県であった長野県も、もろに影響を受けていた。

 「満蒙開拓団」を日本一送り込んだのは長野県である。それも、並の数ではない。二万六千人の開拓団のほかに、青少年義勇軍が六千人、合わせて三万二千人、第二位の山形県の2・4倍というダントツの差をつけての一位だ。

 そのうち、生きて返ってきた人は、約半分の1万5千人。むごいことだ。満州に行けば楽な暮らしができると騙されて、夢をみて、中国人を追い出した土地に侵略させられ、命を奪われたのだ。

地図を売っていたおじさんと

露店が並ぶ道

 「満蒙開拓団」は侵略地の開拓とともに、といきづまった農業政策として行われた。義母が貧しさを嫌ったのか、土仕事を嫌ったのか、両方だったのか、まともに聞いたことはないが、開拓団ではなく、義父は薬関係のお役所仕事で、「満州」では結構いい暮らしをしていたらしい。中国人のメイドさんがいたというし、スケート靴を特注であつらえたりもしたと、義母は話してくれた。

 一般の開拓者は寒さと貧しさと厳しい労働の暮らしを強いられたが、役人など身分のある人たちは優雅な生活を送っていたことが、義母の話しでよくわかる。夫の兄弟六人のうち、四人がここで生まれた。夫は末っ子なので終戦後引き上げてきて日本で生まれている。旧国務院内の小さな売店で、当時の大変詳しい市街地図の複製を売っていたので、義母にどこに住んでいたか聞いてみようと思い買ってきた。

60度の酒と地元料理

 さて、街には、満載の野菜を積んだ馬車やリヤカーをつけた自転車がたくさん走っており、道の両脇には、芋やねぎ、白菜などの野菜や果物を山のように積み上げた露店がずらっと並んでいる。

 とにかくどこへ行ってもたくさんの人だ。李さんの話では、長春は人口732万人、市内は285万人で、「中国の都市ではとても小さいほう」だという。日本で百万都市といったら、それこそ大都市、700万で小さいとは!スケールが違う。

 「10月末には雪が降り、気温は零下25度ほどに下がります。昔はもっと寒く零下30度以下にもなりました。だから白酒(ばいちゅう)を飲みます。35度では度数は低い。60度くらいのを飲みます。冬が長いので、朝から晩まで飲んでいて、テレビやカラオケがない時はマージャン。飲みすぎて外で寝てしまって、凍傷で手足を切る人がよくいました。春は4月5月の二ヶ月だけしかありません。長い春が欲しいなあと望んで長春とつけたのです。」と、説明してくれた。

 「地酒の白酒で地元の料理を食べるのが一番」と言われたが、白酒は香りがあまりに強烈で、皆さんはおいしそうに飲んでいたが、私は一滴も飲めなかった。娘のパートナーはどうだろうと、お土産に一本買ってみた。白地に濃い青の模様の瀬戸物のびんがちょっと素敵だったから。

 料理は野菜が豊富に使われており、私はインゲン豆ともろこしのぶつ切りと鶏肉の煮物風の一品が一番気に入った。インゲンは肉厚で甘く、もろこしは身がしっかりとして味があった。それからほうれん草に似ていてもっと歯ごたえがある青菜の揚げ煮も気に入った。日本のきしめんと幅は同じくらいでもっと薄い麺(?)はなんと豆腐。白菜、春雨と一緒にいためた味は独特だった。

 もろこしの粉の焼餅(シャオピン)やマントウに粉食文化の流れを感じた。日本では「餅」は米の餅を指すが、本来の漢字の意味は、「食」に「併せる」、つまり水と粉を合わせることなので、粉料理が「餅」と呼ばれているわけだ。

 以前、我が家の餅つきを一緒にやってくれた隣に住んでいた中国人が、「中国で餅はつかない。」と珍しがっていたことを思い出した。東北地方での料理は素朴で親しみやすいおいしさがあった。「南船北馬」と言うように、料理においても南にいけばまた違った味が楽しめるのだろう。北は粉文化圏、南は米(粒)文化といわれているが、今は、流通がいいので違いはそうないかもしれない。

 そうそう、北京では、有名な北京ダッグも味わってきた。これもアヒルの肉とジューシーな皮を、粉を伸ばして焼いた皮に野菜と一緒に包んだもので言い換えれば「クレープ」、だから、粉文化の一品として新鮮に受け止めることができた。お店の人が、目の前でアヒルの丸揚げをさばいてくれた。

 長野市では、議員の海外視察が大問題になって、共産党の追及で解決に向かったが、海外視察と称して、実は視察は名目で税金を使ってのお楽しみ旅行だったからだ。いくつかのコースの中の、中国コースのスケジュールに入っていたのが毎夜の晩餐会。それで長野でも北京ダッグが一躍有名になった。だから私は、どんなにおいしいものかとひそかに期待していたが、どちらかというとインゲンの入った田舎料理のほうがずっと気にいった。

貧しさの克服を目指して

 中国では今、ハイテク産業が急成長しているが、農業政策はそれに追いつかず、都市部との貧富の差が激しくあることは、家や町のたたずまいや身なりなどにも、はしはしに感じられた。

長春最大の合弁自動車会社一汽社

 社員八万人(少し前は12万人いた)を抱えている長春の最大の合弁自動車会社「一汽社」の給料は大変高い。(「汽車」は中国では「車」のこと)

 普通の労働者の平均給料は800元から一千元だというが、「一汽車」は1500元、部課長クラスになると3500元くらいになるという。(旅行中、1元は13円だった)

 北京の繁華街のアパートは月3000元のところもあるという。高級アパートに住んでいる人もいれば、田舎から出てきたレストランで働く娘さんは、食事はお店で食べ、蚕棚のようなベッドが並ぶアパートで共同生活しているという。

 貧富の差は都会と農村との差もあるし、都会のなかでも激しい。ことに農家の貧困の解決は政府の最大重要課題であると、ガイドさんも、懇談をした方も複数言っていた。それは、私も、肌で感じた実感だ。

 そのために政府は、五年間で農業税を撤廃する方針を出した。今年の農家の人の出稼ぎは全土で1億1,390万人にのぼるそうだ。出稼ぎの支払いは中間公務で行うそうだが、この不払いの解決も急がれており、最低の層の収入の底上げのために、政府は解決に乗り出している。

 訪問した東北地方は、中国の最大の農業地帯だ。北京などの近代的大都市を見ただけでは、中国の実態はわからないと思った。繁華街の路上で、紙切れを持って立っている人がたくさんいた。ちょうどヒッチハイクの若者が、行き先を示した紙切れを示しているように。

「あれは何をしているのでしょうか。」

「出稼ぎです。自分のできる仕事を示しています。直接、利用者と契約したほうが損しませんし、めんどうないし」

これが湯さんの説明だった。