中国へ―平和と友好の旅

ハルピンの街で

白鳥の首の下にある真珠

ハルピン キタイスカヤ通り

 ハルピンに着いたのは夕方五時過ぎ、ダウンの上着を持っていってよかった。寒い。真冬は零下三十五度にもなるハルピンの秋も深くなっていた。街はにぎやかな人通りで、ライトアップされたロシア風の建築物が並び、中国とは思えない異国情緒で包まれている。小さな漁村の村にロシア人が入り込んで作ったこの街は、「白鳥の首の下にある真珠」と呼ばれているというが、その名にふさわしい街だと思った。

 キタイスカヤと呼ばれるメイン通りは、千四百五十メートルも続き石畳が敷き詰められている。一九〇二年に作られたこの石畳を守るため、二十四時間の歩行者天国になっていた。

 この石、深さが1bもあるというから驚いた。寒さでしみて浮いてこないための対策でもあるという。百年前当時の値段で、石ひとつ一ドルと、高価なものである。

 百年の歴史が刻まれた古い石畳を踏みしめて、夕飯のロシア料理店へと向かった。中国に入って初めて食べた料理もボルシチなどのロシア料理だったから、どこの国に来たかなと、錯覚を覚えた。

初めて受けたカルチャーショック

 さて、翌日、街の散策をして、中国に来て初めてのカルチャーショックを受けた。それは、この国では交通ルールが意味を持っていないということだ。

「勇気あるものが優先」

 近代的大都市の北京は交通量も比べ物にならないほどだから、さすがに整然としていたが、少なくてもハルピンも長春も瀋陽も同じだった。人も車もバイクも、校外に行けば馬車も、何もかもが車線も信号も歩道も無関係に、入り乱れて動いている。クラクションがやたらと鳴り続けている。現地ガイドの王さんや李さんの言葉を借りれば「ルールはあります。勇気ある者が優先なのです」!!

 「ベトナムはもっとすごかったよ」とIさん。ルールを徹底すること事態が大変な仕事なのだと、初めて実感した。よく事故が起きないものだ。しかし、一週間の滞在中に三回の些細な事故をみましたから、小さな事故は始終あるのだと思う。

 北京では車の急増で道の対応に追われ、十車線の環状線が六本でも間に合わないとのこと、完全な国産車はまだ生産できないので合弁会社で生産しているが、さすが北京ではいい車が走っていた。しかし、私が訪れた地方都市では、古い上にあちこちぶつけてぼこぼこの車が多かった。タクシーも同じである。ここにも、都市部の近代化の急速な発展には目を見張るものがあった。

タクシー

 タクシーの乗客は、決まって助手席に座っているのも新鮮な風景だった。今回は行く先々での地元のガイドさんのほかに、流暢な日本語を話すガイドの湯さんが、通訳も兼ねて一週間通してついてくれた。湯さんの説明によれば、今五〜六軒に一台の割で急速に車が普及し始めているが、免許取得のため練習するチャンスが少ないのでタクシーも利用、覚えるために隣に座るのだという。

 もうひとつの理由は、おしゃべりしたいため。タクシーの運転手さんは北京では「第五のメディア」と呼ばれているとのこと。この助手席、実は、複数で乗るときは奪い合いになるそうだ。割り勘の習慣がなく、助手席に座った人が支払うことになっているそうだ。

 けんかにまでなるというからびっくり。しかもけんかは、男女のカップルでも珍しくないという。男性がスマートに支払うと役割には間単にはならないのだ。「じゃ、助手席を譲ったほうがいいじゃない。」との私たちの声に、湯さん曰く、「いやあ、すると後の付き合いがねえ。見栄もあるし」。

 最近の若い人は割り勘もするそうだが、自分が払うとがんばり、けんかしても助手席を奪うなんて、日本ではおよそ考えられないことだ。

 この日私たちは、ハルピン郊外にある731部隊の陳列館を訪問した。日本人が犯した悪魔の犯罪の跡地に入るのは辛いことだが、真正面から見つめなければならない、そんな思いで向かった。