2009年11月─韓国のたび

11月22日  ソデムン刑務所

 午前中は、景福宮、国立民族博物館の見学でいっぱいだった。午後は、ソデムン刑務所を訪れた、そのあと、3・1独立宣言が行なわれたタプルゴ公園を回った。
 景福館では、一番奥に1895年、閔妃が日本の三浦梧楼氏などによって殺害された場所も見学し、韓国の文化と、日本の侵略の歴史に触れてきた。

 午後は、ソデムン刑務所の見学。たっての願いで入れていただいたコースである。
 
 
 今日はとても寒い日だった。しかし、ソデムン刑務所の中はさらに冷え冷えと寒く、外が暖かく感じられたほどだった。コンクリートの固い建物が熱を遮断していて底冷えするのはもちろんだが、非人間的な残虐な行為で民衆の真実を求める声をつぶしてきた権力の冷酷さが迫って来るからだと、私は身震いした。
 
 
 畳5〜6畳の部屋に7人も8人も押し込められたという部屋は、冬はどんな寒さであったろうか。夏は風も入らぬ暑さに加え、便器の汚物のにおいが激しかったであろう。
 ちょうど、厨房などの復活の工事をしていて、拷問が行なわれた場所は入ることができなかったが、拷問場面を再現した人形は別の場所に移されており、実にリアルで直視することも困難だった。
 さらには、数々の拷問の道具が陳列されていた。人間はここまで冷酷になれるものなのか。鉄の棒に巻かれた糸の役割は、体に打ちつけた度、肉に食い込み引きちぎるためだという。手当てもせずにそこからばい菌が入り腐っていた。
 多くの愛国者が、日本軍によって非業の死をとげた。その数、4万とも言われているが、日本軍が資料を焼き払ってしまったので確かな数はつかめないという。
 韓国のジャンヌ・ダルクといわれた柳寛順(ユガンスン)もここで拷問を受け殺された。その独房は狭く、横になるにも困難なところだった。拷問によって彼女の体は傷みが激しく、長い棺に寝せて入れることさえできなかったという。
 拷問に耐え、監獄から毎朝、「独立バンザイ!」と叫んでいた柳寛順はたったの16歳だった。自由を求める何と言う強靭な精神よ。
 私たちの今は、ユガンスンや小林多喜二のように命を賭けたたたかいの歴史の上にある。参議院選挙にも、大きな大志を持って臨み、私が生きているこの時点での人類的役割をしっかり果たさなければと意を強くした。

 そして、日本のアジアへの侵略の深い反省なくして、なぜ、アジアの人々と心からの信頼と友情を築いていくことができるだろうか。 沖縄の普天間基地の移転問題も、原点はここにある。もう軍事力での外交の次代ではない。アメリカの基地は撤去させ、憲法九条を守り、アメリカとは安保条約を廃止して友好条約を結んでこそ、アジアの皆さんへの責任の取り方であり、真の友好を結ぶ条件である。
 韓国には、年間230万人もの日本の観光客が来るのに「ソデムン刑務所には2万人」と話してくれた通訳のスヨンさんは、今日はわたしたちに気遣って「2万人も来てくれるということです」といってくれた。
 志位委員長も韓国を訪れた報告記のほんでも言っていたように、私も、日本人はぜひこなければならない場所だと思った。

 小雨が振り出したタプゴル公園は、若者の集まる繁華街、(仁寺洞)インサドンと隣り合わせ。ソウルでは交通費は基本的に無料、そしてこの公園ではボランティアの炊き出しもあるので、お年寄りが集まってくるという。
 しかし、「ここは少し前まで日本人には厳しいところでした。独立宣言をした場所ですから、当時のことを知っている人は日本人には冷たい。日本からきた観光客に『悪口を浴びせられるかもしれませんが、心積もりを』と言い渡したこともありました。でも、『偉い』と言って、飲物を差し入れしてくれた人もいましたよ」と。今日は雨模様のゆうがたでもあり、見学者は私たちしかいなかった。
 ここには10枚のレリーフが飾ってあり、1枚1枚に、3・1独立運動のたたかいの場面が刻まれていた。
 私は「この当時、日本共産党だけが『赤旗』でこの運動を評価し励ましていたのです」とスヨンさんにふたたび伝えた。
 スヨンさんは「日本はアジアと仲良くしなければ、経済の面でも外交の面でもだめだと思います。鳩山さんは、どうなのですか。期待をになっていますが、かんばしくありませんね」との鋭い指摘があった。