ベトナムからのたより―平和と友好の旅

2011年9月24日 5日目  ハノイへ

タイスワン「平和村」でさおり織りの子どもと

変貌を遂げるハノイ

 フエから航路ハノイに入った。ここでの目的は「タイスワン平和村」の訪問と懇談。そしてハノイ市内の見学である。
 朝一番、雪さんが新聞を見せてくれた。「ほら、昨日話した事件です」と。それは、事故にあった大勢のけが人が飛び込んできた病院で、医師の手が回らず待ちきれない家族が切れてしまって、医師を殺害したニュースだ。「医師が足りない。だからこんな事件が起きる」と切ない声。本当に胸の痛む話だ。
 さて、まず、ハノイに入って一番先に目に入ったのは、空港前の「ヒタチ」と「パナソニック」の大きな看板だった。工場団地にはどこまで行っても日本の企業の看板が続く。いちばん、日本企業は入っている街がハノイだ。
 フエのゆったりした落ち着いた雰囲気、にぎやかだったけどホーチミンの街の広さとは違って、道も狭くひしめいており、ごちゃごちゃした忙しい街との印象だった。人口は600万人と、ホーチミンより少ないが、やっぱり首都だ。
 北爆を受けて街が壊されたため、都市計画も早くからすすんだのだろう。進みつつある都市化計画でごった返している。近代的ビルが立ち並び、また建設途中のビルの隣は崩れかけた昔の民家があり、混然としている。おそらく数年を待たずに、中国の北京や上海のような街に変貌するだろうと思った。「あの一角もなくなるだろうなあ。中国のフートンがなくなったときのように立ち退き問題もおきるだろうなあ」と想像。
 ベトナムには水上生活者が大勢いたが、この頃強制撤去させられたという。川で体を洗って排泄もして、野菜も洗う。衛生面からの撤去だったというが、アパートに入ることを拒否した人は川べりにテントを張って、いわゆるホームレス生活をしているという。なじんできた生活習慣を奪うのは、難しい問題だ。
 相変わらずバイクは多いが、車の台数も多くなった。さすが首都、人と車で、まるで東京に出て行ったときのような疲れを感じた。

タイスワンの「平和村」の見学と懇談

 訪れた「タイスワン平和村」はアメリカの枯葉剤の影響で生まれつきダイオキシンの影響で障害を持った2歳から18歳までの子どもたちが住んでいる施設だ。街の真ん中にあり、探すのに少々苦労した。目立たなかったのである。
 女性の副事務長さんが応対してくれた。おでこまで隠した白いキャップがよく似合う優しい人だった。
 医療ケアはもちろんのこと、大きな子は自立を目指しての絵画やコンピューターや「さおりおり」の技術を身につけるプログラムも持っている施設ではある。しかし、施設に入りたい子どもをすべて受け入れるのは困難を極めていた。
 ひとつは財力が問題だ。もともとはドイツのオスバーハウセン国際平和村の援助を受けて1991年に設立されたものだが、今でもドイツや韓国、日本、アメリカの財団や個人からの寄付に頼ることが多く、経営はいつも厳しい。食事だけで一人900ドン(日本円で70円くらいか)かかるという。建物の老朽化も進んでいた。
 子どもたちは130人前後、ドクターは13人。ベトナムではきちんと大学を出た博士医師が「バクシ」と呼ばれいわゆる日本のドクター、「バクシ」が全く足りないので、その下で働く医師を3年の研修で養成しており「イシ」と呼ばれている。
 看護婦や食事担当、その他の職種全員でスタッフは82人いるという。
 「赤ちゃんの検診制度はあるのですか。障がいの子達はどうやってここにたどり着くのですか」との質問をした。
 「検診制度はありません。お母さんが連れてくる。枯葉剤の影響で障がいが出ている場合は政府が認定書を発行します。認定書を発行された子は無料ですが、そうではない障がい児は有料です。でも募金などで補っています」という。
 認定書をつくるための調査、つまり医学的検査や発達診断は行う技術や仕組みもないため、簡単な調査で終わっているそうだ。
「認定書を出すのは政府。私たちは枯れ葉剤のためであってもなくても、障がい児の世話をします。18歳までといっても、その後の生活の場の受け入れは困難を極め、重度な子はここで生涯を終えざるを得ない」という。
 妊婦検診もお金が高いため受けられず、生まれた子どもの血液型もわからないという。
 タイスワン平和村にたどり着いた子はまだ幸せなのだろう。街は活気にあふれ高級な車もちらほら目に付き、高層アパートが建ち子どもたちは携帯とコンピューターゲーム。しかし、一方ではこうした遅れを持っている矛盾がある。先日の新聞「赤旗」には、成人した障がい者を世話する年取った母親の嘆きが載っていたが、「枯葉剤の生だと認定してもらえない」ことが大きな問題となっていた。
 しかし先進国日本だって、障がい者の福祉はまだまだ不十分で、本人も家族も大きな負担を負っている。弱い立場の人を守る暖かい政治は、どこでも求められているのだ。
 平和村のパンフレットはきれいなカラーだった。「パンフレットのカラーは、ベネズエラの援助なのです」との副事務長の話であった。
 さおり織りに励んでいる子どもたちと交流してきた。どの子も明るく、ここでも夫の描く似顔絵に、子どもたちの満面の笑顔があふれた。
 独創的な色使いのきれいなスカーフは、日本の支援会が日本で売ってお金をバックしているという。さおり織りの機織り機械も日本からのものだった。
 私はせめてもの支援と、子どもたちの絵から作ったポストカードなどたくさん買ってきた。

心暑くなった日本への支援

 その後は市内の見学。ベトナム開放宣言がされた広場は「ホーチミン廟」の前である。しかし、ホーチミンはこんな立派な廟に遺体もそのまま安置されることは望んでいなかったはずだ。遺言では焼いた骨を南部、中部、北部の全土のまいてほしいとあったはず。廟を見学する人の行列は絶え間なく、ホーチミンの命日には何時間も待つ行列だというが、私も夫も廟に入る気はせず、広場で写真を撮るにとどめてきた。
 1100年にできたという文廟は歴史を感じさせるたたずまい、空爆から逃れたことを心からうれしく思った。歴代の有名な学者を生んできた学問所だ。ベトナムでは子どもたちが勉学に励むように、ここに連れてくるという。これだけ重みのある大学を見たら、憧れるだろうなと思った。
 そうそう、話は飛ぶが、ベトナムではお葬式は土葬が主だという。火葬にする人は悪い病気とかそれなりの理由があるそうだ。驚いたのは、土葬した人を3年後に掘り起こしてあたらためて火葬にしなおすということだ。「死んですぐの火葬は怖いではありませんか。でも土葬はお金がかかる。だから掘り起こせないでそのままになっている場合もある」そうだ。沖縄では先祖をたいそう大事にして、時々お骨を取り出して洗うというが、文化の違いは不思議なものだ。
 ハノイのホテルのロビーに、日本の災害支援のためのバッチがおいてあり、そばにカンパの箱。バッチには日本語で「日本とともに」英語で「We Saport Japan」とあった。熱くこみ上げるものを感じた。ホーチミン市の「子どもの家」でも、災害支援のみんなの寄せ書きがはってあり、ベトナムのみなさんからの支援は心から嬉しくてならなかった。もちろん、私たちもバッチを買ってカバンにつけさせてもらった。