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ウズベキスタンの話をすこしづつします。
今日は女性の話。
イスラム教は、基本は女性蔑視があると、私は思います。
妻は4人いいし、女性は男性を刺激してはいけないので、肌を見せるな(これは最近は大分緩くなっていましたが)。
女性は家にいて家庭を守れ、男性が稼ぐ。これは一昔前の日本と同じですね。でもここも最近は変わりつつありました。
4人の妻について
「憲法では一夫一婦制だが、コーランでは認められているから・・。でも、実際にはいやです。この頃は金持ちが増えて、金持ちの中には沢山の妻を持つ人も増えています」 「男性は女性が働くことを嫌がります。『なぜ妻を働かせるのか』と言われます。私も働いていますが、夫は『妻はボランティアだ』とごまかしています」
「女性も働かないのが当たり前と思っている人もいますが、一人では食べていけないですから、生活のために何人かの妻の一人になる人もいます」
「また夫から沢山お金をもらいたいので、たとえば20ドルの服を買ったら、40ドルと言います」
なかなかしたたかですね。
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また、本に書いてあったことによると、夫は妻が自分より給料がいいとこけんにかかわると言うので、妻は嘘をついてわざと低く言うこともあるそうです。
ガイドのさくらさんは(日本名あだ名です)、「私は夫が他の人とも結婚したら、離婚します。でも、離婚は男性からはできますが、女性が離婚を申し出るにはいくつかの理由が決められており、それに当てはまらないとできません。たとえば、夫の暴力とか、、、」
他に妻がいても、それはコーランで求められているので、離婚の理由にはならないのでしょうかね?
さくらさんは大変な勉強家で、熱心なイスラム教徒です。
ガイドの仕事の他に、働いていたお金を投資して、なんと保育園を経営していました。定員70人だそうです。
私立なので、保育士の給料の半分が国の補助。保育料は50ドル。公立は無料。
「こどもをたたいたり、自分で食事をとる習慣をつけてあげない園もあるのですが、私は、自立できる子どもたちを目指しています」ということでした。
すごい女性ですねえ!驚きました。そのエネルギー!!
また、さくらさん等ガイドを社員としている観光会社の社長さんが挨拶に来てくれましたが、40代の女性でした。
社会進出する女性が増えてきているのだなあ、とうれしいことでした。
私の調べでは、ウズベキスタンの女性の就労率は38・57%でしたが、内訳はわかりませんから、なんとも言えません。
数字だけみれば、日本とそう大差ないかとも思いますが。
観光先のお土産売り場には、沢山の女性が働いていましたが、こうして家庭を支えているのだなと思いました。
どの国でも、女性は、人権を認めさせるために奮闘しているなあと思いました。
保育園のことですが、ウズベキスタンの就学は7才から。6才での保育は義務になっていて、卒園の証明書がないと入学できないそうです。
今日はここまでです。
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おはようございます。
起床時、「今日は病院の組合員の窓口の当番だ!」と、出かける算段で朝の仕事をしていたが、ハッと、「今日は休み?」。
明日のことでした。やれやれ、勘違い。
昨日、医療生協の会議で訪問の計画をしました。
今年は地道に訪問し、運営委員や配達員の担い手を増やすと同時に、要求運動を広げなければ、と言うことです。
医療生協の理念にも反する、軍拡・生活破壊が加速度的に進められようとしてます。
さて、ウズベキスタンタイムです。
ウズベキスタンは世界有数の綿花の輸出国。
ソ連時代にソ連の支配下に入った国のそれぞれに、産業が押しつけられましたが、ウズベキスタンは綿花でした。
そのために、福島県ほどの広さがったアラル海が干上がってしまうという、世界最大といわれる自然破壊が起きました。
漁業も破壊されました。
灌漑用水につかったためです。
ここ数年のうちになくなってしまうのでは、とも言われています。
アラル海には何本かの川が流れて入りますが、上流の国では水力発電に使う水が欲しいために、なお、水量が少なくなっており、水利権の問題は、国同士で交渉が行われています
野菜を作る畑も綿花にしたため、ソ連崩壊で独立してから国民は食料にも大変困った時代がありました。
さて、綿の花を摘む作業は、国民総出の作業。集まった若者たちは泊り込み。
小さな子どもまでかり出され、一時はILOから「子どもの労働禁止」で勧告されて、そのため、綿花の輸入をやめた国もあると言うことです。
それは改善され、最近は大学生のアルバイトも禁止だそうです。学業に差し支えるとの理由です。Tキロ摘んで100円だったそうですが。
この頃は機械での作業が多くなった。でも、ガイドのさくらさんの話では、手で摘んだ綿花の方が品質は良いと言うことでした。
その綿花で作った製品が、お土産やに沢山並んでいました。
私も孫のために物色しました。
写真はモスクに入る時、半ズボンだったために巻きスカートを渡された夫。足をむき出しにしてはいけない!
「では、ウクライナでは、小麦を強制されたのか」との質問がありました。そうだと思います。
私の記憶では、ウクライナはもともと豊かな農地で小麦の収穫があったと思いますが、ソ連が強制的にほとんどを輸出に回しました。
ソ連の外貨を稼ぐためです。
さらに収穫のノルマを課し、達成しない農民は弾圧するなどして、ウクライナでは(を初めカザフスタンや他の傘下の国にも)、飢餓が生じ、ウクライナが一番大きな被害を受けたと、何かで読んだことがあります。
そんな歴史を振り返ると、プーチンのやっていることは、二重三重に罪深い。
数日前にも書きましたが、そのウクライナ難民がロシア人と仲良しだという話に、私は感動しています。
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ほりたてのタケノコを沢山いただきました。
下処理は早さが勝負!
そこで、力を振り絞って挑んでいます。
その間に、ウズベキスタンタイム。
ちょっとした小話にします。
ウズベクの人は、明るく人なつこい。戦後、日本人捕虜が劇場や鉄道などの建設に真面目に一生懸命に取り組んでくれた歴史などから、親日だと聞いてはいましたが、ビックリでした。
出会った高校生やおばさんやおじさんたちに、ニコニコと「一緒に写真を撮って欲しい」とお願いされ、何度も写真に収まりました。
満面の笑みで肩を組んだり腕をつないだり、屈託ありません。
日本では考えられませんね。本当にいい経験でした。
ガイドさんが言っていましたが、ウズベクにはロシア人も住んでいるのですが、ロシア人が多く住んでいる地域にウクライナの難民が沢山いるそうです。
でも、そこではみんな仲良しで、ウクライナ人はロシアは憎んでもロシア人とは仲良しだと言います。
中国で聞いた話を思いだしました。
第二次世界大戦後、捕虜収容所では日本人捕虜は大切に扱われた。中国人がコーリャンを食べているときに白米を食べさせてくれたことに現れているように、人間として大切に扱われた。
中国人は怒った。自分の親、子を、同胞を殺した人間に!!
しかし、「この人たちは、元はと言えば、我々と同じ貧しい農民だ。悪いのは軍国主義だ。人間として大事にすれば、まっとうな人間になる」と教育を受け、捕虜を大事にしたそうです。
中国には、そのような歴史もあることも事実です。
今日言いたかったことは、国を超えて仲良くしている我々庶民の力が、平和を守り発展させるのだと、また実感したと言うことです。
高市に負けまいね。
さ、タケノコが柔らかくなりました。
小話のつもりが、長くなりました。
明日は何を話ましょうかな?
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5月2日
家族は二人は仕事、あとの人は子連れで恐竜公園に遊びに行ったので、私は、一人、大型買物はしましたが、ゆったりと草取りやスケッチ、本読みで過ごしました。
先日お話ししたブハラの日本語センターですが、ブハラ国立大学の中に拠点がありますが、NPOですね。
子どもたちとの懇談で時間いっぱいで、大人の話を聞く時間がありませんでしたが、読んだ本によりますと・・・
ウズベキスタンで初めて日本語が学べる機関ができたのは、ソ連から独立した時、タシケント大学にでした。
NPOの日本センターもでき、私設の「のりこ学級」もできました。のりこ学級は、石川県小松市出身の日本人のエンジニア大橋夫妻が、退職後、私財をなげうって作った学級で、「貧しい子も学べるように」と無料で行っています。
ご夫妻は亡くなられましたが、後継者が続けていると言うことです。
懇談した子達は、我々の質問に、生き生きと応えてくれてました。
さくらさんが通訳に入りましたが、簡単なことは通訳なしでも理解して日本語で応えてくれました。
たった1年かそこらしか学んでないというのにですよ。
何年勉強しても、英会話一つできない私とは雲泥のちがいです。
驚き。
「日本語は難しいでしょ」
「いいえ!!楽しい!!」
「なぜ、日本語を学びたいの?」
「日本の文化を知りたい」「日本大使館で働きたい」
「アニメの作家になりたい。どうしたらいいか」との質問も出ました。・・・
日本の中高生が、こんなふうに生き生きと対応するだろうか、と感心しました。
キューバでの若者との懇談経験でもそうでしたが、私たちが考えている以上に、日本のアニメが大人気であることを、ここでも知らされました。
「スラムダンク」ではもうついてゆけません。
手塚治は知らなかった。古典ですね。
それにしても、アニメはまずとして、大人も子どもも、なぜそんなに日本が好きなのか。
親日を作った戦後の歴史はわかりますが、それだけか。
今ひとつ、胸にストンと落ちません。
在日ウズベキスタン人の人数を調べたら、2000年には189人でしたが、2018年には3746人になっていました。そのうち2366人が留学生です。
ベトナムでも日本語を勉強している若者はたくさんいましたが、でも、日本には沢山のベトナム人が働きに来ていると思うので不思議に思わなかったのですが、留学生は卒業後、どうするのでしょうね。
考え出すと切りがない。いつかまた知る機会があるかも。と言うことで、今日は終わりです。
アア、そうそう、似顔絵絵描きのジィジが子どもたちの絵を描きだして、時間がないのに、まだ描いていない子がいる。
「まずいじゃないの」と皆に言われて、超スピードで、ヘロヘロしながら全員を描きかげました。
花岡さんの折り紙も大活躍。
「折り紙も教えてもらっています!」と。花岡さんが用意してくれた折り紙のお土産も、人気でした。
一芸あると仲間が作れますね。我々の旅の仲間の名前は「つばさ一座」ですから、何か芸を身につけなくちゃ、。5月2日
家族は二人は仕事、あとの人は子連れで恐竜公園に遊びに行ったので、私は、一人、大型買物はしましたが、ゆったりと草取りやスケッチ、本読みで過ごしました。
先日お話ししたブハラの日本語センターですが、ブハラ国立大学の中に拠点がありますが、NPOですね。
子どもたちとの懇談で時間いっぱいで、大人の話を聞く時間がありませんでしたが、読んだ本によりますと・・・
ウズベキスタンで初めて日本語が学べる機関ができたのは、ソ連から独立した時、タシケント大学にでした。
NPOの日本センターもでき、私設の「のりこ学級」もできました。のりこ学級は、石川県小松市出身の日本人のエンジニア大橋夫妻が、退職後、私財をなげうって作った学級で、「貧しい子も学べるように」と無料で行っています。
ご夫妻は亡くなられましたが、後継者が続けていると言うことです。
懇談した子達は、我々の質問に、生き生きと応えてくれてました。
さくらさんが通訳に入りましたが、簡単なことは通訳なしでも理解して日本語で応えてくれました。
たった1年かそこらしか学んでないというのにですよ。
何年勉強しても、英会話一つできない私とは雲泥のちがいです。
驚き。
「日本語は難しいでしょ」
「いいえ!!楽しい!!」
「なぜ、日本語を学びたいの?」
「日本の文化を知りたい」「日本大使館で働きたい」
「アニメの作家になりたい。どうしたらいいか」との質問も出ました。・・・
日本の中高生が、こんなふうに生き生きと対応するだろうか、と感心しました。
キューバでの若者との懇談経験でもそうでしたが、私たちが考えている以上に、日本のアニメが大人気であることを、ここでも知らされました。
「スラムダンク」ではもうついてゆけません。
手塚治は知らなかった。古典ですね。
それにしても、アニメはまずとして、大人も子どもも、なぜそんなに日本が好きなのか。
親日を作った戦後の歴史はわかりますが、それだけか。
今ひとつ、胸にストンと落ちません。
在日ウズベキスタン人の人数を調べたら、2000年には189人でしたが、2018年には3746人になっていました。そのうち2366人が留学生です。
ベトナムでも日本語を勉強している若者はたくさんいましたが、でも、日本には沢山のベトナム人が働きに来ていると思うので不思議に思わなかったのですが、留学生は卒業後、どうするのでしょうね。
考え出すと切りがない。いつかまた知る機会があるかも。と言うことで、今日は終わりです。
アア、そうそう、似顔絵絵描きのジィジが子どもたちの絵を描きだして、時間がないのに、まだ描いていない子がいる。
「まずいじゃないの」と皆に言われて、超スピードで、ヘロヘロしながら全員を描きかげました。
花岡さんの折り紙も大活躍。
「折り紙も教えてもらっています!」と。花岡さんが用意してくれた折り紙のお土産も、人気でした。
一芸あると仲間が作れますね。我々の旅の仲間の名前は「つばさ一座」ですから、何か芸を身につけなくちゃ、。
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5月3日
おはようございます。
憲法記念日です。
平和を守るために、行動しましょう。
今日は新しいポスターの裏打ち仕事と、共産党東部ブロックのスタンディングに参加します。
昨日、「ウズベキスタンはなぜあのように親日感情が強いのか。インフラ整備のために捕虜が果たした役割だけでは、ストンと胸に落ちない」と書きました。
今朝、赤旗を読んで、「あ、これだ!!」とすっきりしました。
千葉大学名誉教授で中東研究家の栗田禎子さんの「九条の役割」の発言の記事です。
彼女は「・・・・日本は東アジアでは侵略戦争、植民地支配の過去がありますが、中東については直接支配したことはなく、また戦後は平和憲法により戦争や植民地支配と絶縁した国として中東に人々の信頼を集めてきました。・・・・植民地的圧力をかけるのではなく、あくまで地域の人々の主権を尊重し、友好関係を築くことで資源も確保するという外交を展開してきたと言えます・・・」と語っています。
ストンときました。
日本とウズベキスタンが外交関係を開設したのは、1992年、ウズベキスタンが独立して共和国宣言をしたのが1991年ですから、ほぼ、独立とともに外交を開始しています。
2006年には、当時の小泉首相が初めて、ウズベキスタンを訪れています。
外交内容の細かいことは省略しますが、日本への信頼の基本には、憲法9条が合ったのだ、と、9条のすごさをみた思いです。
戦後の日本人捕虜の果たした役割が尊重されるのも、そうした根底があるからのことでしょう。
最終日にウズベキスタンで亡くなった日本人捕虜のお墓参りをしてきましたが、このお墓も、ウズベキスタンが負担して作ったと言います。
本来なら日本が負担するところなのでしょうが、世界でも、このようなことは珍しいのだそうです。
この旅で様々なことを学びましたが、このことは、友好こそ世界平和の礎だと、深く胸に刻んだ大事なことでした。
行く前は、頭に隅にもなかったまったく知らなかった国が、こうして身近になり、お会いしたあの人、この人と心はつながってゆく。旅の醍醐味です。
争いからは、憎悪と哀しみしか生まれない。
今日は、思いを込めてスタンディングし、平和を訴えたいと思います。
写真は、ウズベキスタンの絵描きさんの似顔絵を描くジィジ。
筆ペンが珍しかったらしく、「交換しよう。欲しい」と言われたが、余分に持っていなかったのであげられなかった、と言っていました。
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5月7日
おはようございます。
日常が始りましたね。
静かで人にもまれず、良い休みでした。
庭の草取りもできました!
今日は会議などあります。
今日も元気で過ごしましょう。
さて、ウズベキスタタイム。
やはり、旅行中に毎日記録するのが一番だとわかりました。
もはや、忙しくてかかわっていられないのと、記憶が遠のいてきます。
でも、書きます。
今日は、織物について。
素晴らしい刺繍や織物をたくさんみてきました。
シルクだけのもの、シルクと綿の混紡のもの・・・。本当に素晴らしかった。
ウズベキスタンの女性は、織物が得意。
ところが、織物にも物語がありました。
スターリン時代になって、彼は、1930年に、手工業のすべてを、当時、織物の根拠地であったブハラから撤去して、ある特定の地域に移住させました。
フジルガナ盆地のマルギナン周辺とのことです。
機織りを禁止して、なんと、機織り機まで廃棄させたというのです。
なんのためか?工業化にするためと、本には書いてありました。
当然、抵抗はあったことでしょう。
内職で機織りした職人を投獄したというのですから、尋常ではありません。
ソホーズ、コルホーズ方式を、生産をあげるために徹底したのか。
独立してから、国民は機織りの再建に大変苦労したそうです。
そんな歴史を知って織物を見ると、その価値、値打ちが深まります。
「空飛ぶ絨毯」を買ってこようかと思いましたが!!
スターリンと高市首相のやり方、似てません??
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5月8日
おはようございます。
今朝の赤旗で、「その通りだなあ。私たちに足りないのはそこだ」と思った記事がありました。
アメリカのDSAのメーガン・ロマー全国共同議長の談話です。
ニューヨーク市長選での快挙には驚き、その時も感じましたが、メーガン氏の談話で「これだよね」と確信を新たにしました。
また、訪問だけでなく、交流イベントや楽しいアクティビティも大事にし、私たちが大事にしている「つながり」を大切に、それに「対話苦手」についてのアドヴァイスもありました。
「その人に世界を変えるチャンスを与えるのであって、相手にとって負担ではなく贈り物」とありました。
そうですよねえ、でも、そこで勇気を出す踏切が大事です。
昨日は、相棒原田さんと当面の訪問の約束をしましたが、継続してがんばろうとあらためて思いました。
今日は、スーパーでの「街角健康チェック」ですが、マイナンバーの期限が切れる年度になり、現場で混乱が起きています。
「前の保険証のもどせ」の署名もしていただこうと用意しました。
さて、ウズベキスタンですが、まだまだ、一杯あります。
失業率、出稼ぎ問題、女性の議員数、大学の実態・・・・でも、いい加減にしようかしら。
藤原さんとの出会いなど、あと数回書いたら、終わりにしましょ。
世界遺産のことも、一杯ありますが、それはパス。
一つだけ、印象深かったことは、ウズベキスタンの英雄チィムールが軍隊を出すとき、兵士の死亡人数をどうやって数えたか、です。
大きな井戸のようにほったものがあって、そこに出兵する兵士が石を一つ入れたそうでうす。
無事帰還したら、石を取り出す。
残った数が、亡くなった兵士の数だと。なるほど
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5月10日
昨日は沢山のお祝いのメッセージを有り難うございました。
夕べは珍しく夜更かしをして、12時まで本を読んでいました。
実は、共産党元衆議院議員の藤野やすふみさんから、本が届いたのです。
私には誕生日のサブライズ! でも、全くの偶然に昨日届いたのです。このタイミング!
本は藤野さんの亡き父上が書かれた「もう一つの抑留」、ウズベキスタンの日本人捕虜の調査に、何度も現地に行かれての報告でした。
私は、著者藤野さんと、以前、一度お会いしたことがありますが、まさか、ウズベキスタンの研究者だったとは存じ上げませんでした。
そして、ウズベキスタンに行く前に、あれだけ一生懸命、参考の本を探してやっと5冊を手に入れて読みましたが、身近にあったのだとは、本当に衝撃でした。
本を手にして、興奮しました。「知りたかったことだ!!」と。
それで夜更かししてしまったのです。
読みながら、「ああ、この本を読んでいれば、もっと違う角度からウズベキスタンをみることができたのではないか」との思いで一杯になりました。
ウズベキスタンならぬ、日本の歴史もまだまだ知らないことがあったことも、衝撃でした。
それは、ソ連への抑留政策が、実は、スターリンと日本軍部、大本営、昭和天皇政府の取引だったと言うことです。
108万人の捕虜をソ連に労働力として差し出す代わりに、天皇制維持と、戦争責任逃れの代償にした、スターリンとの合作の棄民政策でした。
「国籍を捨ててもいい」「土着してもいい」とし、スターリンは労働計画を綿密に立て、ウズベキスタンには2万人が送られたのです。
結果、60万人を越えるという考えられない捕虜が、強制連行されたのです。明らかな国際法違反です。
労働の過酷さに倒れた日本人の名前も知られずに、「あの土手に埋められた」などの報告に、ウズベキでなくなったとは知らずに待ち続けただろう家族を思うと、胸が塞がる。
墓地は、あちこちの地域に沢山あります。
日本人捕虜が劇場や炭鉱や学校、病院など、様々なインフラ整備に尽力した調査実態を読んで、ウズベキスタンの国民と日本との信頼関係が、私が想像していたことより、はるかに深いものがあったことも知りました。
私は、素晴らしい世界遺産と同等に、いや、今の情勢の中ではもっと重点を置いて学ぶべきことだと実感しています。
一度の訪問ではかなわないが、またいきたい、でも、もう、行かれないなあと残念に思っているところです。
最後に訪れたタシケントの日本人墓地で、博物館が休館だったことも、残念でなりません。
本は、あと半分あります。今日、読み切れるでしょうか。
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5月11日
おはようございます。
私は、シベリア抑留について、まったく無知であったことがわかりました。
ウズベキスタンで学ぶことは、シルクロードの歴史の過去だけではない。
抑留された捕虜の問題に踏み込まなければ、現在のウズベキスタンの国民の暮らしを理解する上でも、不足があると実感しています。
藤野さんの本に記されていた、ウズベキスタン人の日本への留学生の研究結果にも、驚きました。
留学生カミロフ・ペソドフさんは、「戦争による日本人の捕虜の墓地」と題して調査しました。
それによると、日本捕虜は、戦争賠償金の肩代わりとして抑留されたことがわかったとして発表しています。
スターリンとの取引の中身の一つに、私は愕然としました。
賠償金の肩代わり!!
「シベリアより気候条件や民族的条件が比較的良かったウズベキスタンでも、自殺、逃亡による射殺、日本人同士の対立、抗争、ケンカがありました。50数年立ても傷跡を引きずっている人もいます。
私が生きて帰れたのは、しんだ戦友たちのおかげです。名もなく荒野に埋もれた日本人捕虜がいるはずです」
とは、2004年当時の、生きて帰れた高津さんという方の証言です。
藤野さんは、荒野に埋もれた捕虜を訪ねて、何度も何度も、ウズベキスタンに通い、墓を探し調査を進めました。
死んだら、ロシア人もイギリス人の捕虜も、みんな近くの土手に埋めてゆく、そんなところもありました。
ソ連は、捕虜の管理もしっかりしていなかったので、名もなく墓もなく、どこにいるのかもわからない捕虜がたくさんいました。
「私はなぜ、ウズベキスタンの赤い土の下に眠っているのですか?」との声にはっきり答えることができたときに、日本は大きな一つの戦後を終わらせることができるのではないか・・・・と藤野さんは述べています。
終わらせるどころかの今の情勢の中で、私たちに託された責任を感じます。
9条を守ろう!! |
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5月12日
さて、わたしは旅に出る前に読んだ本に書かれていた、「ウズベキスタン国民の親日感は、戦後の捕虜の労働によって劇場を始め建造物を作ったことと、その働き方が真面目で一生懸命だったことが信頼感を生んだ」との説明が、どうもストンと胸に落ちませんでした。
ほんとにそれだけのことなのか・・・と。
その後、赤旗に載った中央アジア研究者の談話を読みました。
日本は中央アジアを侵略しなかったこと、植民地扱いもしなかったし、戦後9条で戦争とは無縁の国になったこと、話し合いの外交で資源の調達もしたことで信頼が増したとの内容でした。
「これだ」と思いました。
その信頼を元に、捕虜の仕事への真面目さの評価も相互作用して親日感情が強いのでは、と胸に落ちました。
間違ってはいないと思います。
しかし、それはあまりに通り一遍な考えでした。
藤野さんの本を読んで、私の考は浅はかだったと痛感しました。
藤野さんは、捕虜になった方の実際の姿を聞き取り知らせてくれました。
ナヴォイの劇場をみただけでは、それはわからない、と言ったのは、それでは真意が伝わってこないと思ったからです。
「真面目に働いた」「しっかりした建造物で信頼を得た」・・・それはうわべの表現で、神髄をついていないのではないかと思いました。
日本人捕虜25119名は、ウズベキスタンの全土に散らばり、様々な建造物を作りました。
炭鉱、ダム、発電所、孤児院、病院、公会堂、セメント工場、レンガ焼き工場、運河、・・・・。
その建造物の写真を見ると、恐るべき力を感じます。
一日360cの黒パン、薄いスープ、時々魚のかすが入っているようなスープだけで。
一つ、アレグレンという町でのことを紹介します。
対ドイツ戦で男性がいなくなった村の人口は2万人、そこに送られた捕虜はなんと7500人です。
日本人捕虜は、炭鉱の町を作り上げてしまうのです。
炭鉱はもとより、公会堂、ロシア人の住居、病院、学校まで!
住民のくらしそのものを、根底から支えたのです。
そして、今なお、それらの建造物は、市民の生活を支えていると言うことです。
それだけ、開発が遅れていると言う一面でもあるでしょうが。
私は、強い感動を覚えました。
捕虜が送り込まれたそれぞれの町で、そのようなそれぞれの物語がありました。
捕虜となった方々の、命をかけた仕事が、私たちを結びつけてくれる土台になっている、そう実感しました。
その方々への戦後日本のとった態度には、怒りがわきました。
ドイツ人の捕虜は、日本よりはるかに多かったが、ドイツでは戦後、労働に見合った賃金を支払い、手厚い保障をしたと言いますが、日本政府は「ソ連の仕事をしたのだからソ連が払うべき」と責任逃れをしました。
賃金を支払うと言うことは、「奴隷という汚名のまま死にたくない。日本人として働いた証を」と、藤野さんも述べていますが、その通りだと思います。
最後のページに近づいて、私は泣けてきました。
「私はなぜウズベキスタンの赤い土砂の中に眠っているのですか」と、土の中から聞こえてくる声。
「あなた方の仕事が架け橋となって、友好の絆を紡いで行けるのだ」と、そう言えるようにしなくてはならないではありませんか。
もう一つ、2004年で言えば、ウズベキスタンへの援助は日本は世界でダントツだということでした。
現在はどうか、まだ調べていません。
道路建築、農業支援、医療関係、通信網拡大、精油、紡績等への手厚い援助・・・
援助というと聞こえはいいが、その実際の仕事を担当し、機材を提供するのは、日本の大企業です。
大企業を設けさせるための援助。
捕虜だった方への保障もしないで。
さて、私は、ウズベキスタンに行く前は、中央アジアについては関心は薄く、ウズベキと日本の関係については、まったく無知でした。5冊ほど読んだ本の内容の範疇で、世界遺産を巡っての歴史と、イスラム教と価値観、生活の有り方などが中心でした。それはそれで、重要でした。
しかし、日本の関係は、サッと触れただけでした。
日本とこれほどの深い関係があったとは!無知を恥じるばかりです。
そして、藤野さんの本によって、知りたいことの神髄に触れることができ、心から感謝しています。
しみじみ、その国のことを知るということは、自分の国を見つめることだと痛感し、旅は価値観の違いを認め合いながら、友好関係を深め、世界の平和の土台になるのだなあと実感しています。
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