HOME

中野さなえプロフィール

 1948 年(昭和23年)宮城県石巻市に3人姉弟の長女として生まれる。宮城教育大学教育学部卒業後、千葉県で小学校教諭として勤務。1978年、夫(長野中央病院中野友貴医師)の郷里である長野市に転居。長野中央病院の発達相談員として、子どもの発達や育児相談活動を行う。3人の娘はそれぞれ独立し、長野市上野に夫と暮らす。日本共産党長野県女性児童部長。


父からは楽天的な性格を 母からは自分の力で生きることを

右手がなくても左手があるわ…

 私は、1948年(昭和23)に宮城県石巻市で生まれました。

 父・喜一郎(故人)は無口で働き者でしたが、勤めていた会社が倒産した上、保証人になった親戚の借金も抱えてしまいました。それからは、小学生の私が「父ちゃんの仕事はなに?」と聞くほど、ペンキ屋、行商などありとあらゆる仕事をしていました。

 一生懸命働いても貧しく、雑炊しか食べられない毎日でした。お米も1合、2合の計り売りで買っていたことを覚えています。ですから、小学校のときに初めて食べたハムエッグと牛乳の味は今でも忘れられません。

 父は65歳のとき、働いていたかまぼこ屋で機械にはさまれ、右肘を切断してしまいました。ところが、楽天的な父は「まだ左手があるわ」と、70歳すぎまで新聞店で働きつづけました。

これからの女は自分で稼げなきゃ…

 母・ちよ子は、祖母が「昼の残りのすいとんが食べたい」と言うと、なくても作って持っていってあげるような人です。105歳まで生きた姑に仕え、裁縫を教えながら、父の兄弟を含めた一家13人の生活を切り盛りしました。寝る間も食べる間もない生活だったと思います。

 母は「これからの女は、学問して自分で稼げなくちゃだめだ」と、私を大学に進ませてくれました。母が歩んできた道と言外の思いを、同性としてひしひしと感じたひと言でした。

“自主性”という宝ものをくれた先生たち

「大学に行って学校の先生になりたい」…

 中学校の卒業文集に書いた私の将来の夢です。私の通った中学では、校長先生を先頭に、子どもの声に耳を傾け、自主性を大切にする教育が行われていました。生徒会長に選ばれた私は、「運動会の種目は生徒に決めさせてください」「文化祭の企画は私たちがたてます」と提案しました。すると、「がんばりなさい」と全部生徒にまかせてくれるのです。私たちは嬉々として取り組みました。『自分で決めて、自分で実行する…そこから本当の自主性が育つ』と、陰で支えてくれた先生たちの教育者としての姿勢に感謝するとともに、一生の宝物をもらった中学生活でした。

 「ああいう先生になりたい」…教師への夢はこうして膨らんでいきました。

入学金を借りて教育大学へ…

 高校は中学時代とは正反対の「良妻賢母」教育の押しつけでした。ことあるごとに「女は」という学校に疑問を感じずにはいられませんでした。家の経済は相変わらず苦しく、奨学金を受けながらの3年間でした。

 「教師になる夢」をかなえるため1966年(昭和41)、母が父を説得してくれ、入学金を親戚から借りて、宮城教育大学へ進学しました。

社会への目が開かれて

「主体的に生きる」意味を知って…

 大学では、3年生から学生寮に入りました。寮生大会で意見を述べたその夜、先輩が部屋を訪ねてきました。なんと、私に寮長選挙に出てほしいというのです。「冗談じゃない」と断りましたが、「寮長になってあなたの声を現実のものにしてみない?」そして、主体的に生きることの大切さを語ってくれる先輩の言葉にハッとしました。「自分で考えて自分で行動した」中学の生徒会でのことが、一瞬にしてよみがえってきたのです。主体的に生きることの素晴らしさを、無意識に学んでいたのです。

その夜、真剣に語ってくれた先輩は日本共産党員でした。

世の中を良くしたい…

 寮長選挙に当選し、私の目はどんどん社会に向かって開かれていきました。 当時、政府による学生の自治への介入が露骨になってきた時期でした。それは、寮に対しても同様でした。政治の事はなにもわかりませんでしたが、サークルなどで学ぶうちに、本当に子どもの心に寄り添える教師になるには、子どもたちが生きる世の中を良くしていく生き方をしなくてはという思いがつのりました。

 ある夜、寝ていた先輩を起こして、日本共産党への入党を申し込みました。

失った命と発達相談員としての新しい出発

双子の子どもを失って…

 大学の寮長時代、寮生の全国大会に向かう途中で、当時、東北大学の医学生で宮城県の寮委員長をしていた夫(中野友貴)と出会いました。

 やがて私は千葉で念願の教員になり、27歳のとき学生だった夫と結婚しました。2年後には長女が生まれ、夫も無事に医師になり初めて一緒に暮らせることになりました。

 数年後に双子を妊娠。「がんばって働き続けるお母さんになろう」と思った矢先、未熟児で生まれた子どもたちは生きることができませんでした。そのショックは、千葉に住むことも教師として働く自信も失せてしまうほどのものでした。夫の仙台研修を機に、教師もやめて千葉を離れました。

人々の目が輝く21世紀の長野県へ

発達相談員として…

 1980年(昭和55)、夫の郷里である長野市へ移り、長野中央病院で発達相談員を始めました。しかし、当時は障害を診断しても、どうしたら発達を保障できるかという理論も実践も不十分で、専門に学べる場もありませんでした。転任された河添先生を追って四国や長崎へ、さらに、発達相談の権威である田中昌人・杉江先生夫妻をはじめ多くの専門家の先生方に教えをこうため、全国各地を訪ね歩きました。

 時間はかかっても、一生懸命努力する子どもたちは人間の輝きを見せてくれます。自閉症の子を「はずかしい」と、誰もいなくなった公園で遊ばせていたお母さんが「どの子も伸びるんですね。この子を誇りに思います」と胸をはる姿に、「発達の可能性はつくりだしていくもの」ということを教えられた日々でした。

教育運動などに取り組んで…

 私生活では、3人の娘の母としてずっと教育運動に取り組んできました。無認可保育園や学童保育の設置、高校募集定員削減反対運動、10%条項による高校通学区のなし崩し問題などです。思想信条は違っても、子どもを思う心は一緒のお父さん、お母さんと手をつないで運動してきました。けれど、そこに必ず立ちふさがるのが、住民の声が届かない政治、税金の使い方の逆立ちぶりでした。

世の中を変えるために…

 21世紀を迎え、暮らしも教育も老後も不安だらけです。そのどれもが県政や国政のあり方と結びついています。豊かな自然が守られ、子どもたちが健やかに育つ長野県、働く人がむくわれ、お年寄りが安心して暮らせる長野県にするために全力をつくしたいと思っています。