2016年11月   ベトナム訪問記

ベトナム8日間、平和と友好の旅 2016.11.20〜27

中野さなえ

 青年時代をベトナム反戦の運動で明け暮れた私たちの年代は、誰もがベトナムには特別の思いをもっているのではないだろうか。
 海外旅行に首を縦に振らない夫もベトナムは別。夫とは2回目のベトナム、一行の11人はそれぞれの思いを胸に8日間のベトナムの旅に出た。期待以上の素晴らしい出会いの旅となった。

ドクちゃんは36才、双子のパパに

最初の晩からサプライズ。夕食にドクちゃんが!!翌日、ドクちゃんの職場のツーズー病院で懇談の予定だったが、病院だけではゆっくり交流できないだろうとのガイドのホーさんの計らいだった。みんな大感激!私たちには未だに「ドクちゃん」、でも36才の双子のパパになっており、名前はなんと「ふじさん」「さくら」ちゃん。

 足の装具は大変重くて5キロもあるとのこと。だからつけないほうが楽と、松葉杖で階段もひょいひょいとこなし、バイクで双子の学校の送迎もしているという。

 現在広島の大学でベトナムの歴史や平和の問題の講義を定期的に行っており、「日本とベトナムの平和のかけはしになりたい」と大活躍の報告に、ドクちゃんは握手攻め。

 私たちはお礼に感動を込めて「紅葉」「故郷」を歌った。手前味噌だが、それは素晴らしい即席合唱だった。

ホーチミンのツーズー病院平和村で

 元院長先生のチュンドクター、タンドクターと懇談。
 枯葉剤被害者の平和村はベトナムの各地にあるが、病院と一体になっているところはここだけ。当然、重度の子が集まってくる。400人いた子どもたちも現在は60人、25人のスタッフで見ていた。

 財政負担は国の援助では足りないので、病院の予算と世界からの支援で賄っていると。
 体より大きな頭を持つ子、眼球のない子たちや、ホルマリン漬けになった胎児を直視するのは辛かった。奇形の残酷さはとても表現できない。平気で実験をした人間の恐ろしさに旋律が走った。原爆も同じだ。
 「子どもを放棄する親もいます。チェン先生は80才過ぎても『私はあなたたちのおばあちゃん』と毎日病院に来てくれます」とのタン先生の言葉に、私は目頭が熱くなった。
 一緒に遊んだこどもたちは明るく屈託がない。お土産のお手玉をとても喜び、一生懸命投げっこして遊んでくれた。
 関係者は損害賠償を求め、子どもたちを連れてアメリカへも訴えに行った。しかし政府は決して認めようとしない。製薬会社も「政府の責任」と逃げている。ベトナムの民を殺すための飛行機や戦車は、日本から飛び立ったではないか。私たちが無関係と言えるわけがない。

枯葉剤被害者の会・会長ヒーンさんとの出会い

 2世、3世、と続く枯葉剤被害者を世話し、リハビリや生活、就労支援を行っている被害者の会のヒーン会長とダナンで交流できた。黒いドレスに身を包んだ素敵な女性だった。被害者は全国で4百万人、ダナンで5千人、そのうち子どもは千五百人だそうだ。
「日本の皆さんには、戦争のときも今でも私たちを支援してくださり心から感謝しています。新日本婦人の会にも支援をいただき、アメリカでは原水爆禁止協議会などの平和団体とも一緒に平和の行動をしました。日本の被爆者の会とも交流しています。問題はダイオキシンだけではありません。原爆や人間を破壊するものはたくさんあります。
私たちもアメリカ政府や製薬会社へ訴え続けていますが、認めてもらえそうにないと思っても、それは平和の啓発のために続けなければなりません。これからもご一緒に平和のために助け合いましょう」。ベトナムのしょってきた苦労と日本の果たす役割の重みが、腹にずっしりとくる言葉だった。

解放戦士との出会い

 ホイアンから車で3時間弱、ホーチミンルートを走り山の中の少数民族カツゥー族の部落へ行く。「ああ、南へ物資を輸送した道だ」と感慨深かった。当然、この近辺は枯葉剤の散布の的になった。カツゥー族も被害を受けた。解放軍を支援したお礼に、戦後は援助を受けているという。元村長さんは92才、賞状など当時のものを見せてくれた。山奥にも子どもがたくさんいることに驚いた。
 ホーさん宅での夕食会での、彼のご両親との出会いもサプライズ。ご両親とも、共産党のジャーナリストとして活躍した方だった。「ホーチミンにも会いました。道徳的な人でした」
 ご招待のお礼に歌った「自由ベトナム兵士」に、「私たちも歌った歌です!」とお父さんが感嘆の声を!ホーさん一家もベトナムの歌を歌う。気持ちは一つになった。「今度出会うときは、歌う時間をもっと取りましょう」と固い握手を交わしあった。

平和なアジアをめざし

 ベトナムのドイモイも道半ば、困難や矛盾も沢山ある。しかし、出会えた皆さんは前向きに進もうとのエネルギーに満ちていた。平均年令が28才、希望だ。平和と人権尊重が当たり前になるアジアをめざし、日本の果たす役割はほんとに大きい。それを胸に刻んだ旅だった。

 出会えた、笑った、飲んだ、食べた、踊った、歌った旅。夫の描いた似顔絵は130枚にのぼった。

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