コラム―散歩道

21・5センチの靴

 先日、バーゲンセールでいい靴を見つけました。私のサイズは21・5センチ、なかなかありませんからとても苦労しています。まるで「シンデレラの靴」、ガラスの靴がぴったりの人を探すのではなく、小さな足に合う靴を探す違いはありますが。もしかしてシンデレラは21・5センチだったのかしら?
 だから見つけたら長持ちするように大事にはかざるをえません。歩くのが仕事だから何より歩きやすさが一番、靴次第で疲れが全然違います。軽くて、ヒールが低くて、足の指が開くくらいゆとりのある靴が好きです。その上おしゃれなら言うことなし。新しい靴も、なかなかいい。気に入りました。

ニューファッション

 人が履き物を履いたのはいつ頃からなのでしょう。ものの本によると、確認できる最古のものは、アルメニアの洞窟で発見されたBC3500年頃のもので、牛皮で作った靴だと言うことです。つまり7500年も前から、ヒトは靴をはき始めていたのですね。
 しかし靴にしても、サンダルやぞうりにしても、やっぱりはじめは高貴な階級からでした。
 日本で一般的に靴が愛用されるようになったのは明治以降ですから、まだ100年ほどしかたっていません。
 昨年の大河ドラマの「龍馬伝」では、袴に短いブーツの龍馬の出で立ちに当時の時代背景を見ました。何でも江戸幕府は、兵士など一部のものを除き一般人には「洋靴」を禁止していたようです。やがて文明開化の明治となって、女学生が袴姿に靴を履くファッションが流行しました。龍馬も女学生も「さま」になっているなあと、西洋文化を上手に取り入れた和洋折衷文化に感心します。着物ではバランスが悪い。
 しかしこのファッションにも、私は、ヨーロッパに追いつけ、追いつけの富国強兵策のにおいを感じるのです。

日本で初めての靴屋さん

 日本で初めての靴工場は、1870年に開業した「伊勢勝造靴場」、今の「リーガルコーポレーション」です。
 発端は陸軍の創始者だった大村益次郎が、外国に大量の靴を注文したが、一足として日本人に合うものがなかった。そこで彼は、商売人の西村勝三に日本人に合うサイズの靴の製造を依頼したのです。ところが開業寸前に後ろ盾の大村益次郎が亡くなり、靴も売れず困っていたところ、陸軍から大量の注文です。それで一大靴産業がはじまったのでした。靴製造の出発は、軍靴だったのです。靴の普及の発端までが富国強兵策、言い換えれば戦争をバックにしていたのでした。
 「軍隊にとって軍靴は兵器についで大切なもの」(第4回帝国議会議事録)だったのです。「原発ゼロの運動にとって、靴は署名用紙についで大事なもの」と言えるほど歩いたら、県下50万署名もきっと成功するでしょうね。
 3月15日の「靴の日」は、実は「伊勢勝造靴場」の開業記念日なのです。

草履のおすすめ

 昔からの日本の履き物も捨てたものではありません。足半(あしなか)と呼ばれるかかとの部分がないわらじぞうりがあります。これは戦国時代の武将の戦闘用の履き物で、キッと踏みしめて踏ん張りが効き、水の中でも脱げない利点があります。のちに庶民の間に農具、漁具として利用されました。
 「これは子どもたちにも履かせてみたい」と私は思っています。それは、子どもたちの足を見て、歩行で大事な親指付近のつま先のけり出しや土踏まずの形成の弱さが気になっているからです。
 人間独特の2足歩行は「かかと・つま先歩行」と呼ばれていますが、まずかかとから着地して、その力を足の外側に回して最後につま先でけって前進する方法で、これにより土踏まずが形成されます。「かがと・つま先歩行」は、経済的なエネルギーで軽快に長く歩く力、バネのある柔軟な体の動きなどの能力を育て、ヒトの発達を豊かに発展させる土台となりました。この能力の形成には「足半は最適な履き物だ」と、私は考えているのです。長く歩くには無理がある・・とも思いますが。
 今、足半はそこらにはありませんが、足半でなくても、鼻緒のついた草履は、踏みしめの力をつけるのには優れた履き物です。だから、私は草履の利用をおすすめします。利用している保育園もありますね。職人さんや農家の方が使う地下足袋の威力も、あらためて実感します。靴はものによっては、足の働きを弱める弱点ももっているのですね。

魔法の靴

 さて、私の住む地域の女性後援会が、地元市議候補に「魔法の靴」をプレゼントしました。歩けば歩くほど住民のみなさんと仲良くなれて、要求も共感し合え、「力を合わせましょう」との連帯も広がるわけですから、「疲れず歩けて出会いをつくってくれる」魔法なのかな。
 私も新しい靴でせっせと歩くとしましょう。出会いと共感を楽しみながら。魔法は努力が生んでくれるもの、9月18日は6人の市議団を誕生させたい。

           (2011年 8月31日  記)