コラム―散歩道

われは海の子

「特区」に怒り収まらず!

 私の故郷は宮城県石巻市です。村井宮城知事は「漁業特区」を申請して、国と一緒になって漁業権の規制緩和をやろうとしています。震災で、船も網も養殖の道具も、何もかも失って生業が成り立たなくなった漁師に「漁業は会社でやるから、サラリーマンになれ」というのです。
 海の男と女が、納得するわけがありません。私も、「国がやりたくてウズウズしていることを率先するなんて、なんてひどい知事だ」と、同郷のものとして恥ずかしく、怒りも収まりません。

海と漁師に囲まれて

私は海になじみ、漁師に囲まれて育ってきました。 

 悠々と流れる北上川の中瀬には造船所があって、景気のよい時は新造船をつくる音が「カーン、カーン」と鳴り響き、完成すると浸水式は華やかな一大イベントです。河口から海に入る船は色とりどりの大漁旗で化粧して、その旗が風に翻るさまは躍動感に満ち、鉢巻を巻き寅さんのような腹巻をした漁師はかっこよくて、惚れ惚れとしたものです。

 遠洋漁業から帰った漁師が船から下りることを「陸(おか)に上がる」といいます。陸に上がった漁師でにぎわっていたのが、私が育った頃の石巻です。

 姉は漁師と結婚しました。姉の嫁ぎ先は、石巻から船で1時間半ほどの網地(あじ)島です。網地島のおじいさんもおじさんもいとこも、みんな漁師でした。網地には良く遊びに行きました。いとこは、サッともぐっては、モリで黒鯛やタナゴをわけなくしとめてくるのです。海の中ではピンクのタナゴが群れをなして泳いでおり、ウニやアワビの宝庫です。浜辺で煮た雑魚の味噌汁は、思い出すとよだれが出そうです。

 おじさんはウニやアワビの密猟の監視員でした。資源を守るために解禁日を決めてお互い守っているのです。一つ二つ取るのは許していたけれど、時には確信犯的な「盗み」もあるようなのです。
 私はおじさんの監視船に乗せてもらって、海にでました。すると、おじさんは「待ってらいよ」ともぐってアワビやウニ、ホヤを取ってきてくれるのです。海水で洗って口に入れれば、磯の香りが体中に広がるのです。

 養殖のわかめや昆布の湯どうし、カキ、ウニをむく仕事では女性が活躍します。船着場に陣取った女性たちは、ウニを鉈で縦に割りオレンジの身をヘラでクルッとバケツに落とす共同作業です。石巻ではウニはガゼと呼びます。だからこの作業は「ガゼむき」です。ガゼのトゲは手に刺さると腫れてしまうほど毒気がありますが、おばさんたちの手の皮は厚くトゲごときに負けません。「ほら、うめえがら食わいん」とおばさんがくれたのは、茶碗いっぱいのウニでした。

 私は、こんなふうに漁師の仕事と心意気を体で感じて育ってきたのです。

生業と海を守れ

 石巻は漁業が経済の要、関連の仕事がたくさんあります。
 姉夫婦は現在「陸にあがり」、網を作りフカヒレを加工する工場を息子夫婦と営んでいます。その工場はこの震災でヘドロが一杯入り込み、再開に難航しています。
 また私の弟は、造船所の電気溶接工として働いていました。景気が悪くなって新造船がめっきり減ったためパイプ溶接に転換し、今は全国の石油コンビナートなどの配管溶接で年中「出稼ぎ」です。
 実家は女川原発から10キロ範囲です。原発の溶接も仕事もありましたが弟は「どんなにお金が良くてもあんな危険な仕事はしない」と断りました。
 私の父の実家はかまぼこやでしたし、石巻には日本有数の水産加工工場団地もありました。今回この団地が、津波で壊滅しました。

 海を生業としている人たちは、海と共に生きています。海のすべてを熟知しており、こよなく海を愛しています。
 昆布の養殖をしているSさんが言いました。「船だけは沖に出して助かった。何とかまたやりたい。だが、福島原発の影響が宮城までやってくるかもしれない。不安だ」
 Aさんは「家も船もみんな流された。長靴ひとつない。どうすればいいんだ。中学卒業してずっと海で生きてきた私に他の仕事はできない」と。

 漁業で食べていけるように、国は全面的な支援をするのは当たり前のことです。海を企業に明け渡すなんてとんでもない。農業も酪農も同じです。第一次産業を踏みつけて、何が景気対策か。
 震災をビジネスチャンスとしか捉えていないから、長年かけて培ってきた海のルールも、命がけで海とたたかってきた漁師の誇りも、人生そのものも否定して平気でいられるのです。儲け主義からは、資源の乱獲、海の汚染、儲けがなければ撤退と、いいことは何も浮かんできません。
 しかし、宮城の漁協はじめ全漁協が立ち上がり、福島の「原発撤退」の集会は全国的規模の集会に発展し、国中が声を上げています。私も「われは海の子」、海を軽んじるものは許さない。原発も撤退を求めます。

             (2011年7月1日 記)