コラム―散歩道

義母が逝く

 大往生

 3月1日、夫の母が逝きました。94才、大往生です。
 午前中の飯綱町でも活動を終えて、長野に移動中に夫から携帯に留守電とメールが入りました。急いで、入所中の「老険施設ふるさと」に走りました。この間、何度か危ないときをむかえ、そのつど立ち直ってきましたが、いよいよお迎えがきてしまいました。数回にわたって家族に「もうすぐだから、心の準備」をと伝えていたのかもしれません。
 すでに集まっていた同居していた夫の長兄の家族に見守られて、安らかできれいなおばあちゃんをみて「94年間、ご苦労様でした」と思いました。
 長寿はいいことです。立ち上がれないほどの悲しみはなく、穏やかに送り出すことができます。長寿を喜んで穏やかに送り出せるように、安心して暮らせる老後の保障があってのことですが。

 ひめられた力

 義母は、私の母と4つちがい、私の母は90才です。二人の共通点は「秘められたちから」です。

 夫の母

 夫は兄弟6人の末っ子。東京や岐阜、千葉県、新潟県妙高から集まった夫の兄弟とその家族と、写真をみながら昔話に花が咲きました。
 おじいちゃんは夫が高校生の頃、病気で亡くなりました。おじいちゃんは、朝鮮でも働いていたし、「満州」で医療関係の仕事に就いていたらしく、立派なひげを蓄えた白衣姿の写真がたくさんあります。有名な志賀潔博士と並んだ写真も何枚もありました。どんな仕事だったのか、義母に聞いてもはっきりと分からないままになってしまいました。
 義母はその「満州」に嫁いでいったのです。おじちゃんはきれいな人が好きだったらしい。おばあちゃんの若い頃の写真は、まるで夢二の絵のようにきれいです。
 「この人はおじいちゃんの彼女だったらしい」「おばあちゃんは知っていたの?」「昔の教育だから、女は我慢だったみたい」と。そんな苦労もあったんだ。
 「満州」ではそんなに悪くない暮らしだったらしい。でも、帰国してからは、大変で、特に、おじいちゃんが病気で亡くなってからは、女手一つで6人の子どもを育て上げたのです。しかも女の子は一番上の姉ひとりだけ、男が5人です。
 お兄さんたちは「恐い母だった。棒を持って追いかけられた」と話してくれました。義母の気丈さが伺えます。料理屋で皿洗い、植木屋さんなど、何でもやったそうです。「母のおかげで高校にも行けた」と兄たち。
 あらためて、温厚だった義母の強い一面を見た思いがしました。

 私の母

 私の母は、80才になる姑と小姑が何人もいた家に、後妻として入りました。先妻の子が二人、姉が15、兄が10才くらいだったのでしょうか。格式が高くうるさかった姑は105才まで長生きしました。この姑の介護を最後まで自宅で見て、何よりも年寄りを大切にした人です。私も「おいしいものやめずらしいものはまず、おっぴさん(ひいばあちゃん)に」としつけられました。
 思春期の兄と姉の子育てはさぞ大変だったと思います。でも、母は、育てられる子のほうが辛い思いをしていると、差別なく育てました。私には「誰と結婚してもいいが、人の子は育ててはいけない。どんなに一生懸命育てても、継母といわれる」そう言っていました。
 腹違いの兄は、映画「おとうと」のような兄でした。警察から兄を引き取ってくるとき「継母だから情状酌量の余地がある」との文書に印鑑を捺す事が「わが子より大事に育てているのに悔しくてならなかった」そうです。
 父の給料だけではとても食べてゆけず、昼は13人家族の世話で働きまくり、夜は夜なべで頼まれた仕立てもの針を押し続けました。小姑が出て、姉も結婚し、父母と私の兄弟3人だけの生活になったのは、いつの頃だったか・・・。

 世が世なら

 大正、昭和初期生まれの方々は、それぞれが大変なご苦労をくぐり抜けてきました。戦争の悲惨さも体験しています。特に女性の苦労は並大抵ではなかったでしょう。それを全部背負って、耐えて負けずに生きてきた女性の強さ。世が世なら、条件さえ整いさえすれば、どれだけ自分らしい力を発揮することができたでしょうか。
 そうした力強い女性の94年の人生が、静かに幕をおろしました。彼女らの時代より、私ははるかに自由に生きていますが、この母たちの強さはあるだろうか、義母の一生を反芻しながら、自分に問うています。私の母はどうしているか、急に心配にもなりました。しかし、母に会いに行く前に、私は長寿を喜べる政治を目指してひと働きしなければなりません

            (2010年3月6日  記)