コラム―散歩道

山菜の季節に

 春は山菜、スーパーの野菜が色あせて見える季節です。
 私は生まれも育ちも宮城県の漁港、石巻です。長野に住み着いて何より残念だったのは、新鮮な魚介類を食べる機会が少なくなったことです。
 特に、大好物の「ホヤ」との別離は残酷物語、ホヤの生産の95パーセントは三陸海岸ですから「夏がくれば思い出す・・遙かなホヤ・・遠い海・・」ああ、切ない。
 その無念さを埋めてくれたのが「山菜」との出会いでした。
 ウド、フキ、コゴミ、セリ、タラの芽、コシアブラ・・・・実益を伴う山行は、また楽しからずや。本箱には山菜の本も並ぶようになり、料理のレパートリーも増え、台所革命が起きました。

山菜は野菜か?

 数年前、末娘と新潟県の粟島に渡った時のことです。泊まった民宿のおじさんは政治談義が大好きで、すっかり仲良しになりました。「仕事が終わったら一緒に飲もう」とのお誘いで、宿の隣のスナックへ繰り出したくらい話がはずみました。
 話題の一つに山菜の話がありました。「昔は、各家にひもが2本配られたんだよ。山菜はその2本で縛れるだけの量が許されていたんだ。食べるだけを採れということかな。乱獲で絶やさない工夫だね。今は?そんなことしなくても、若い人はあんまり山菜を食べないよ」とのことでした。
 狭い島のこと、昔は貴重な食料だったとうかがわれます。

 ところで野菜ですが、今私たちがなじんでいるキャベツ、白菜、タマネギ、ジャガイモなどは、ごく最近のもの。ジャガイモは16世紀に日本に入ってきましたが、はじめは観賞用で本格的に庶民の口にはいるようになったのは、20世紀に入り、北海道で栽培が始まってからです。タマネギも同じです。
 一方、ナス、カブ、ニラなどは、奈良、平安の時代からあったようですし、なんと大豆は2000年前に伝来して、縄文時代から食されていた形跡があります。野菜の歴史はそれぞれ。
 本格的に野菜が栽培されるようになったのは室町時代です。山菜と野菜の区別は、そこから始まりました。
 だけど反対に今は、山菜が栽培されるようになりました。先日も栄村で立派なギョウジャニンニクの畑を見てきたばかり、これは、山菜というべきか、野菜というべきか・・・。

ウドは贅沢品

 栽培山菜の最たるものはウド、真っ白い長い、スーパーのあのウドです。また「山ウド」として店頭に並んでいるのは、実は出荷前に天日に当てて緑色をつけたものが多い。山菜もどきの野菜ウド?

 今は、簡単に手にはいるウドも、昔は薬用として尊重され、大変な贅沢品で庶民の手には入りませんでした。
 その貴重なウドも、江戸時代の末期には栽培に成功して、現在のウドの前身「軟白ウド」として一般にも出回るようになったのです。
 しかし、江戸幕府がウドの売買を規制した時代がありました。贅沢品だという理由です。おそらく天保の頃の水野忠邦の政策だったのではと思いますが、しかしそれほどの貴重品だったとは、つゆ知らず。

ウドとシラネアオイ

 数年前、戸隠の西岳付近にウド狩りに出かけました。山深く、道なき道を進みました。沢を渡り、藪をこぎ、汗を流してウドの林に出会ったときのよろこび。
 ウドをしょって登り詰めた眼前には、シラネアオイの群生が風に揺れていました。時間が止まりました。
 栽培と山のものは、それぞれ価値がちがいますが、山のもののアクの強さと風味は格別ですし、山菜採りでは自然と交われる醍醐味があります。

 粟島での「2本のひも」の話から、人間と自然の共存の考えと、自然から恵みをいただく感謝の気持ちが伝わってきましたが、山菜採りは、そんな得難い心をもはぐくんでくれる気がします。

平和でこそ

 「山菜なのか、はたまた野菜なのか」・・食糧難だった戦争の時代を思えば、なんと余裕の考察でしょうか。
 「サツマイモのツルはいい方、草という草は何でも食べた」「学童疎開の子どもたちはトンボをメンそるタームの缶に入れて、火鉢で焼いてたべていた」そうです。
 それは決して過去のことではありません。今だって日本中に、今晩のお米に事欠く人があふれており、強い国の犠牲になっている貧しい国では、子どもたちの5人に一人が飢え死にしているのです。
 自分だけがおいしいものを食べることができたって、何にもうれしいことはない。
 「戦争と貧困をなくそう」人類が命を重ねて、長いあゆみを続けている目的はそこにあります。
 私たちは幸運にも、平和の世論が地球上をぐるりと大きく取り巻いている、歴史的な情勢の中にいます。オバマ大統領が「核廃絶を!」と言うほどに! 
 ささやかなことでも私にできる行動を続けよう、山菜を食べながら、そんな気持ちがわいてくる今夜です。

      (2009年5月9日 私の61才の誕生日に記)