コラム―散歩道

尊厳ある人生をおくるために

 

 8月26,27日、県議団、長野市議団と一緒に岩手・宮城内陸地震の調査のため宮城県へ出かけたおり、施設にいる母に会ってくることができました。
 食事を食べる以外はお風呂も移動も、ベッドから起きるのも全介助、夜はオムツのお世話になっておりますが、話はしっかりできます。しかし、明日になれば忘れてしまうことが多くなりました。

母の変化

 母は89歳、ここ一年ほどですっかり変わり、ニコニコ素直なかわいいおばあちゃんになりました。その前は、頑固さが日増しにひどく、表情も暗く憂鬱そう、何も語らず一点を見つめていることも多かったのです。付き合うほうも憂鬱でした。
 2年前にはまだ自宅にいて、家の中ならヨロヨロでも、トイレまで自力で歩いていたし、お風呂も何とか自分で入っていました。
 そのころはデイサービスもショートスティも拒否気味で、いつも「行きたくない」「家に帰りたい」と家族を困らせていました。
 ところが今は「ここが一番いい。気が楽。みんな親切にしてくれる」と言って、つき物が落ちたように柔軟で明るくなったのです。

本音はどこに?

 母は13人家族だった貧乏所帯を切り盛りし、105歳まで長生きした姑の介護をやり遂げ、夜な夜な着物の仕立てをして家計を支えてきた、気の強いしっかり者でした。
 それだけに、体が動かなくなって次第に何もできなくなってゆく自分を、なかなか受け入れることができなかったのかもしれません。
 デイサービスも「私の行くところではない」と自分はみんなと違うんだと強調していました。
 他人の手を借りなければ生きて生けなくなった自分を悟り、家族に介護させる気兼ねとあきらめが、人格を変えたのでしょうか。
 母との付き合いは楽になったけど、動けなくなる状態を早めたのは施設での生活でもあり、柔軟になっただけ生きる執念も削がれてきたのでは、と考えることがあります。
 「ここが一番いい」とは、与えられた条件の中での選択であって、心の深層では違うと思うのです。

在宅の充実こそ、と私は思う

 現状では家族にとって施設はどうしても必要です。しかしわたしは、今の施設は、人生の最後を送る場所としてふさわしいところとは思えません。
 何より家族がいないし、住み慣れた地域からも切り離される。慣れ親しんだ自分の身の回り品はほんのちょっとだけ、思い出の品もない部屋で、好きなものも食べることができない。母が抵抗したのはもっともだと思います。
 母はミキサー食、「食がほそい」そうです。でも、もって行った大好きなゴマ豆腐やわらかいお饅頭などはぺろりと平らげてしまいました。
「おいてゆかないでください。家族がいない時誤飲でもしたら大変ですから」と申し訳なさそうに言う職員は、汗だくで走り回っています。低賃金、重労働で、おやつどころか、食事の介助さえ、3人も4人も同時に見て、言葉をかけるゆとりもない働き振りです。働くほうも介護されるほうも辛い。

 たとえひとり暮らしでも、住み慣れた住まいで地域の人に囲まれ老後を暮らしたいと思うのは、人の自然な考えだと思います。施設に入るにしても、どこまでも人間らしさを大切にする条件が必要です。
 防衛省は2009年度の概算要求で、軍事費に4兆8千5百億円、それと別枠でグアムへの米軍再編のための予算7千億円を計上しました。一方では毎年2200億円の社会補償費の削減です。
 このお金の使い道を変えれば、在宅介護を充実させ、お金のあるなしに関係なく誰もが安心して暮らせる老後を保証することなど、たやすいことではないでしょうか。
 要するに、誰のために政治を行なうのかの根本が問われているのです。
 母の変化は、人生を人間らしく全うできる政治の根本からの改革をしなければと、いっそう、私の怒りと意欲をかきたてています。
 福田首相の辞任で、そのチャンスが目の前に迫ってきました。勝たなければ!

忘れたほうが幸せ?

 「また温泉に行こうか。孫たちとみんなで」「いいねえ、行きたいねえ」と目を耀かせた母です。
 行ったとしてもすぐ忘れてしまうのです。私と会ったことだって、きっと忘れてしまったことでしょう。
「たとえ認知症でも楽しいと思う一瞬の気持ちが大事」との理学療法士として働いている末娘のアドバイスを自分に言い聞かせて、辛い気持ちを収めています。
 一方では、母の物忘れはありがたいと、ねじれた考えも持ちました。介護保険、後期高齢者の医療制度の差別内容を知ったら、最低の老齢年金の母は、ますます肩身を狭くし、生きていたくないと言うに違いありません。忘れっぽいから、最後の人間としての誇りを保てているのではないかと。
 
 母は、オムツを変えてもらいながら施設の職員に、「長野からきた私の娘。一人きりの娘なの」と言いました。
 「ずいぶん遠いところにきてしまったものだ」としみじみ思いました。そう考えるようになった私も、人生を重ねたということでしょうか。
  
                   (2008・9・5  記)