コラム―散歩道

映画「母べい」のメッセージ

恐ろしくも暖かい映画
26日からの上映を待ちかねて 「母べい」を観にいきました。内容が興味深かったことと、監督は山田洋次、主演が吉永小百合、私の好きな壇れいも出るとなれば、これは一日も早く観たいと、楽しみに待っていましたから。

年代は昭和15年前後、治安維持法違反で警察に検挙されたドイツ文学者野上を信じ、片寄せあって生きてきた一家の物語です。
野上の教え子の不器用だが優しい青年山崎、野上の姪の久子、近所の組長さんらが、一家を支えるその暖かさ、あの戦時下に、人が信じあい寄り添う姿のきめ細かい描写が心を打ちます。

これは事実に基づいた作品で、原本は映画の「照べい」こと、野上一家の次女、野上照代さんの著「父へのレクイエム」だそうです。映画の「父べい」は獄死しますが、実際の最上氏は上申書を書いて釈放されています。彼は、終戦と同時に入党したとのことですが、照代さんはこのことについて、「仲間の戸坂潤や三木清が獄死したのに、上申所を書いて出所した自分に罪悪感があったのでしょう」と、2月3日付けの「赤旗日曜版」に書いています。「父べい」は潔癖で良識の人だったのでしょう。

新しい政治への息吹はとめられない
治安維持法の犠牲者は、共産党員に限りませんでした。人間としての良識を持ちそれを表現した人は誰でも容赦なく弾圧され、逮捕者だけで数十万といわれています。国民の思想統制を完璧なまでにやり遂げる手段として、徹底した共産党弾圧は、最高の手段として使われました。

最高刑が死刑という治安維持法の脅しにも負けず戦争に反対し、自由を掲げてたたかった夫、その夫を信じ、夫を犯罪者と見るものにはたとえ実父や恩師であっても毅然と立ち向かう「母べい」の強さは、誰の心をも打たずにおれません。か弱く見える一人の女性の、自由を奪うものに対しての勇気ある抵抗、人としての良心の主張だからです。吉永小百合の演技は、彼女の日ごろの平和活動と重なって、重みを感じました。

映画を観終わって、私の体中に旋律が走りました。気高い生き方に打たれると同時に、今、決して過去のこととして済まされない政治が進められようとしているから、生々しく受け止めたのです。

でも、あの時代と決定的に違うところは、国民が過ちは繰り返さない賢さをしっかりともっていることです。
 
だいたい「贅沢は敵だ!非国民」の言葉を今の若者はどう受け止めるでしょうか。傑作だったのは、「母べい」が常会の会議に出たときのこと。「皇居に向かって礼」を強制されますが、ある人が「天皇陛下は今、葉山の御用邸では?葉山に向かって礼をしなければ」といますと、「そうだ」とみんなで向き直る。すると「でもやっぱり皇居のほうでは・・」とまた座りなおす・・・こんなばかげた行動を、今誰が本気でやるでしょうか。

しかし、正当にビラをまいただけで不当逮捕される事件も起きており、自民・民主の両党は虎視眈々と戦争法である「恒久法」制定もねらっていますから、まさにせめぎあい、新しい時代への息吹もとめることはできません。

山宣独り、孤塁を守る 今は草の根でみんなが守る
いつだったか私は、夢を見て汗をかいて起きたことがありました。特攻に捕まって拷問を受けていましたが、あまりの辛さに「転向します!」と言いそうだったとき、はっと目覚めたのです。なぜそんな夢を見たのかわかりませんが、どんなにホッとしたことでしょう。どきどきでした。

 長野県にゆかりの山本宣治が、治安維持法の改悪に反対して戦ったときの、「山宣独り孤塁を守る。だが僕は淋しくない。背後には多くの大衆が支持してくれるから」は、あまりにも有名な言葉です。
 今は、先人が切り開いてくれた道のおかげで、命を賭けなくても政治改革ができる時代です。草の根でたくさんの仲間が、おおらかに自己主張しています。だから、今、政治革新のためのどんな活動も、苦労でもなんでもないどころか、夢膨らむこととあらためて思ったことです。

「希望とは最初からあるものだとも言えぬし、ないものだとも言えぬ。それは道のようなものだ。多くの人が歩けばそこに希望が生まれるのだ」魯迅の、短編小説「故郷」の最後の文章です。
この文章を噛みしめていると、私の目の前に、非常に多くの人が同じ方向へ歩いているダイナミックな姿が、見えてくるのです。
この流れをもっと大きく太いものに開いてゆきたい。今度は私たちが後輩に「歴史の転換期のあの時代、草の根で頑張ったひと」と言ってもらえるように。
それが「母べい」のメッセージなのではないだろうか、と思いました。
                     (2008・2・5 記)