コラム―散歩道

 新年、おめでとうございます。いよいよ総選挙間近、北陸信越ブロック比例候補者として、議席奪還と共産党の躍進のために、力を尽くします。そして皆さんとの交流を楽しみに、今年もエッセーを書かせていただきます。今年もよろしくお願いします。

お正月料理は庶民のもの

それでもやっぱり「おせち」は必要
 昨年もまた年末の忙しさをぬって、おせち料理をつくりました。定番の黒豆、きんとん、ごぼう炒り、などをはじめ、帰ってくる子どもたちにと、いろいろ一生懸命つくりました。
 だけど、つくりながら思いました。「一生懸命つくるわりには、食べてくれないんだよね」と。定番の料理は、若い人にはあまり魅力のある献立ではないようで、とくに、一人暮らしで、いつも食事の「酸欠状態」にある娘たちにとっては、「あれも食べたい、これも食べたい」と、目当ては「おせち」だけにあらず。
 
独り者の食卓は、わびしいものでしょう。買った材料を無駄にしないようにと思えば、同じものを何日も、それも単品で食べるようになるだろうし、あるいは既製品のほうが安上がりってこともあります。だいたい、自分のために作るなんて、力がでないもの、ならば、お茶漬けで済ましてしまおうと、私だって思います。
それに学生や安給料の若者では、高いものは買えません。年末の買出しのときも「これ、食べたいけどいつもは高いから買えないの」を連発していた娘でした。もっとも親だっていつもは質素、どの家庭でも、子どもが帰ってきたお正月だから奮発するというものです。
年に2回か3回の帰省の楽しみの一つは、それこそ、幼いころから食べ親しんだ料理を、作ってもらって食べたいということ、だから、要望に応えてあげたいと親心が働いて当然で、おせちのほかにもあれやこれやと作ります。
 
でも、食卓に置かれた3段の重箱、熱い東北風のお雑煮の椀をなくして、元旦はありません。
 これが「新年、おめでとうございます」の気分を作ります。年の初めのけじめとしてのおせちは、やはり必要だと思っています。「お母さんは作りすぎなんだよ」と文句を言われながら、今年も並べました。

「おせち」のはじまり
 「おせち(御節)」の起源をさかのぼれば、平安時代に行き着きます。「御節」は実は正月だけの料理をさすのではなく、季節の変わり目の節日の料理「節供料理」のひとつなのです。1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節日のうち、正月だけの「節供」が「御節」になって残りました。
 「節供」は、神様をお迎えし、悪魔をおいはらう、宮廷貴族の行事でした。そのときの料理が「御節」だったのです。
 平安時代の貴族文化の多くは、江戸時代に庶民の文化として花咲きます。町民が力を持ち、たとえば貴族だけの特権だった「お花見」も庶民が味わえるようになりました。
貴族用語の「御節」は一般庶民の中に「食積(くいつみ)」との呼び名で広がってゆきました。「おせち」が一般用語になったのはごく最近のことのようです。明治以後のこととも、第二次世界大戦後のこととも言われています。デパートで「おせち」を売り出してから、との説もあります。

 たくましい庶民のくらし
もともと「おせち」は、神様にさし上げたものを下ろして家族がいただくものでしたから、お正月ではなく、暮れに食べるのが御節だったようです。
わたしの実家の宮城県は海の町、年越しそばの習慣はなく、暮れに神様にお膳をさし上げて、それを下ろしていただきました。その流れだったのでしょうか。そのお膳には、必ず尾頭付きの「吉次」がのっていました。

貴族の悪魔払いのための行事が、庶民にあっては生活に根ざした「山に帰った田の神様を呼び戻すお祝いの日」となりました。宮城県では、海の神様ですね。
 「正月くらい主婦を楽にしてあげよう」との思いやりが、「神様をお迎えする新年に、台所を騒がせてはならない」と「食積」となって実行されたのです。貴族の女性のためには、この発想はなかったことでしょう。
 生理中の女性が田んぼに入ることを「穢れる」と嫌った裏にも、実は「そのときくらい女性を休ませたい」との思いやりが潜んでいたとも言われています。
 女性蔑視の封建社会にあっても、こうしたささやかな思いやりが存在することは、実生活で女性の苦労がわかる庶民だからこその知恵ではないでしょうか。

 私は、正月の御節料理に、貴族の文化を自分たちの生活に根ざした文化にたくみに創り変えていった庶民のたくましさを感じます。「おせち」を伝えつぐ本質がここにあるような気がして、面倒であってもなかなか捨てがたい理由がここにもあるのです。
                  (2008・1・2   記)