コラム―散歩道

星くずの里

長野県最古のブランド品

10月7日、党河野町会議員の誘いで長和町(旧長門町と和田村)の「黒耀石体験ミュージアム」を見学しました。到着した時は雨もからりとあがり秋晴れ、いっそう美しさをました紅葉に囲まれて、「ミュージアム」がありました。

石器の材料として珍重された黒耀石は、火山から噴出した溶岩がかたまってできた天然ガラスです。といっても産地は限られており、長野県の霧が峰から八ヶ岳にかけての地域は、世界的にも最大の産地となっています。

展示されていた石器が光を浴びて輝いたとき、切り口の鋭さから石器に最適だっただけでなく、古代の人は今の私と同じように、この美しさにこよなく魅かれたのだと、人間の感覚の普遍性に感動を覚えました。「星糞峠」の名の由来はここにあるのでしょう。

長野の黒耀石はなんと関東地方までも運ばれており、しかも、原石としてだけではなく、石器として加工された製品が流通するようにもなりました。単なる物々交換ではなく、生産物の流通が既にあったことに、私は驚きを隠せませんでした。関東地方で見つかった黒耀石の半分以上が長野県産だといいます。

長野にはりんごや野沢菜、そばなど沢山の自慢の品がありますが、長野の誇る最古のブランド品は、黒耀石だったのです。

 はるか3万年前に、人々はどのようにして情報を得、行き来したのでしょうか。


遺跡は生きている

 「遺跡はいきている」これが私の実感でした。

 1980年代に入り、旧長戸町は鷹山地区に周辺にスキー場の建設予定をたてます。そのための発掘調査が始まりました。

ところが駐車場や施設を建設する場所に、壮大な遺跡群があったのです。これには、1955年以来、農業を営無傍らこつこつと発掘をし続けてきた児玉しのぶさんをはじめ先駆者の貴重な資料が、貴重な役割を果たしています。

 発掘作業は残念ながら、建設事業に伴って行なわれ、しかも発掘が終わると作業員はリストラ、遺跡は建造物の下につぶされてしまうことが多いのです。

 ところが、ここは、行政と研究者と住民が一体となって話し合いを重ね、工事計画を大幅に変更して広大な遺跡をそのまま保存することとなりました。

 黒耀石のふるさとを守る運動は、こうして住民と行政と研究者が一体となって進められていきます。

 ミュージアムが行なっている「鷹山遺跡教室」は子どもたちの学びの場、学習を支えるスタッフは地域住民、特に中核になっているのはおかあさん、学習の材料はすべて手作りだそうです。体験した子どもたちの感想文には、体験の面白さだけでなく「僕たちのために一生懸命になってくれてありがとう」と感謝の言葉が返ってくるのだそうです。

 さらには黒耀石とその遺跡の保存、活用の応援隊として「黒耀石体験ミュージアム友の会」が作られています。歩み始めたばかりとはいえ、単なるボランテイア活動だけではなく、研究者、市民、行政の枠を超えて共同で地域の歴史を解明していこうとの壮大な構想の組織です。

 私はここで、遺跡と博物館のイメージを根底から覆されるというカルチャーショックを受けたのでした。

「なぜ?」「不思議」、そしてひたむきな大人の存在

 私たちを案内してくださった、学芸員でもあり長和町教育委員会文化財係主事の大竹幸恵さんの遺跡にかけた情熱には、まぶしいものがありました。

お聞きすると、考古学へ進む最初のきっかけは小学校のころにありました。彼女の故郷は栃木県。6年生の社会科で野尻湖のナウマン像や和田峠の黒耀を学び、「長野はすごいなあ」と憧れたそうです。たまたま、近所で石器が発掘され、和田村の黒耀石を拾った大竹さんは「なんで長野の黒耀石がここに!」。

 そのときの石器をずっと持っていたそうです。「不思議で、不思議で・・」と。ついには考古学が熱心な明治大学で学び、暖めてきた黒耀石のふるさとに居ついてしまったのです。

 もうひとつ、大竹さんは幼いころから、子どもの些細な質問に丁寧に答えてくれる先生をはじめ何人かの「ひたむきな大人」に出会っていることを知りました。

子どもたちの「なぜ?」「不思議」にこそ学習の意欲の源があります。それを引き出してゆくのは、大人のひたむきさ、そして学びあう仲間集団、これこそ学びの原点ではないでしょうか。偏差値で競争させる教育は、対局にあるもの。

人類の科学も、こうして未知の世界への疑問を解明しながら発展を遂げてきました。いまこそ教育基本法の理念を活かし、ひとりひとりの個性を大切にした教育が求められています。

(2006・11・27  記)