コラム―散歩道

千キロの旅

母の旅

 10月14,15日、半年長野で」暮らした母を宮城の長男夫婦のいる実家に送っていきました。車で五百キロの旅、往復千キロ。

 母は86歳、この数年、石巻から長野のあいだの往復千キロを、車で旅をするようになりました。

 父も元気で孫も小さい時は、二人でひょいひょいと新幹線でやってきて、共働きの私を助けて孫の面倒を見てくれました。

 父が亡くなっても、00年の総選挙と知事選挙ときまでは、候補者となった娘の家事援助のために、ひとり新幹線でやってくるほど母は気丈でした。

 変化は02年の旅行の時から出ました。

 この春、今行かなければチャンスをなくすと思いたち、母の念願であった父の思い出のある函館へ家族旅行をしました。腰を痛めて歩けなくなっていた母は、このとき初めて車椅子を使いました。それをきっかけに、食道癌の手術もひびき、新幹線での長時間の座位は耐えられなくなって、長野に来る時は片道五百キロの車の旅となりました。そして長野にいる間は老健施設を利用するようになりました。

 母にはさんざん助けてもらいましたが、今度は介護をする側にと役割が交代となりました。でも、冬は実家で、暖かくなったら長野でという暮しも、もう限界かも・・・「元気で又来年来てよ」と言いながら、「今回が最後かなあ」の気持ちも否めません。

父の旅

 父が死んで23年になります。父のたった一度の車での長野への旅は、五百キロの片道キップでした。

 父は重い脳卒中で倒れました。3度目の発作でした。夫婦2人きりの生活だったので、母は父の看病で疲れ果ててしまいました。私は休暇をとっては帰りましたが、とても続くものではありません。

 そこで長野で介護しようと、夫が自ら迎えに行ってくれました。「元気で帰ってきてね」とご近所の方に見送られて、点滴をしながら運ばれた父は、闘病生活4ヶ月で、主治医の夫に看取られながら長野で亡くなりました。

 私は、1歳3歳6歳の3人の子を抱えて共働き、でも体力もあったし、母と交代で夢中で父の世話をしました。

 母は「死ぬ時は石巻で」と言います。母を送る車中、なだらかな山の際に沈む夕日を見ながら、父も同じ気持ちだったのだろうなあと思ったことです。

千キロよりもっと遠いもの

 仙台から長野に引っ越しすることになった26年前、母は「一人だけの娘なのに、そんなに遠くさ行がねくたって・・」と言いましたが、若かった私は、母のそんな言葉を一蹴しました。

 今ならその意味が理解できます。弱くなって心細くなる気持ち、そして介護のための千キロの旅はあまりに負担です。

しかし、今庶民にとって、千キロよりもっと遠くて苦痛であるもの、それは最悪の介護保険制度です。

 無年金者は百万人、国民年金受給額の平均は4万円ちょっと、そこにはげたかのように襲い掛かる医療費値上げや重税、介護保険料。しかも介護保険利用料が年金額よりはるかに上回る人も珍しくありません。

 「毎日死ねといわれているようだ」、どこでも聞かれるお年寄りの言葉です。これが人権侵害でなくて一体、何でしょうか。家族の精神的、経済的負担も相当で、それがまたお年寄りを苦しめているのです。

 青春時代を戦争で奪われ、戦後は生活困難な中の子育てをしながら戦後復興に力を尽くし、孫に囲まれやっと自分の人生を楽しむことができるようになったときに「早く死にたい」と言わせる政治は、誰が考えても間違っています。

むしろ旗たてて一揆だ

 18日には全国いっせいに、年金生活者やお年寄りが「人間らしく暮らせる最低保障年金制度を!」のスローガンを掲げて「一揆」に立ち上がりました。長野集会には私も党を代表して参加し、ご一緒にパレードもしました。本物のむしろ旗を立て、みんな意気揚々。さすが戦中戦後を生き抜いてきた先輩たち、力強いことこの上なし。

 「人を苦しめる人は、いい死に方をしない。最後までみてごらん」、これは母の口癖です。権力者たちがどんな人生を送るかは解らないけれど、政治の仕組みへの年寄りのこの怒りの怨念は、きっと成就します。

  だって、お年寄りだけでなくあらゆる分野で、「弱いものいじめをやめろ」とみんなが立ち上がっています。子育て中のお母さん、青年・学生、労働者も、学校の先生も・・・。「人生に勝ち組も負け組みもない!」と。

 千キロの距離を縮めるのは、政治の革新しかない、それも、ちょっと急がなくては。力を合わせましょう。来年は大勝負です。

(2006・10・30  記)