コラム―散歩道

映画こもごも

なつかしの「名画座」

 私も、皆さんと同じく映画大好き人間の一人です。ビデオも手軽ですが、迫力を味わえ、また暗い中で自分だけの世界が保てる映画館は、ビデオにはない良さがあります。

 学生のころ暮らしていた仙台市の繁華街東一番丁に、コーヒー一杯分の値段でなつかしの名作品の数々を見ることがでた、「名画座」という映画館がありました。

 そのまん前のビル「ぼんぼん会館」の狭い一室は、原水爆禁止協議会、日本ベトナム友好協会、日中友好協会、平和委員会の同居事務所、民主会館でした。私はそこで、半専従のアルバイトをしていたのです。だから名画座は身近な存在、看板や写真をみるだけでも楽しかった。ソフィア・ローレン、イングリット・バーグマン、ジューン・アリスンなどに夢中でした。安くてよい作品を上映していた名画座はすでになくなってしまいました。残念です。

忘れられない映画

 心に残る映画は数えきれません。ミュージカル、アニメ、ドキュメント、歴史ものに恋愛物語とあらゆる分野に。でもあえて選ぶとすれば、まず山本薩夫監督の「戦争と人間」です。五味川純平の長編小説の映画化で、1970年の作品です。 

 滝沢修さんはさすがでした。現在でいえば、経団連の奥田会長という役どころでしょうか。奥田会長よりも財界人らしく見えた(?)演技のはしはしが、今でも思い出されます。

 日本が犯した侵略戦争の本質を鋭くえぐり、岸田京子さん、吉永小百合さん、栗原小巻さん、山本圭さん、高橋秀樹さんなどの豪華キャストが、豊かな個性で人間模様を演じました。

 映画を観たのは夏の終わり、後期の授業が始まった時でした。実はその年の夏に、夫との出会いがあったのです。

 東大駒場キャンパスで開かれた全国学生寮自治会の全国大会に宮城教育大女子寮の寮長として参加をした私は、そこで始めて、県寮連の委員長をしていた夫と知り合いになりました。

 後期の授業が始まったとき突然、彼から映画「戦争と人間」を見ようとの誘いの電話です。「なんで私に?」と驚きましたが、この誘いがなければ、私が彼と恋に落ちることは決してなかったことでしょう。それなのに、今の夫は、その時観た映画が何だったのか、まるで覚えていないのです!

 私に会える喜びで一杯だったのでしょうか?!

 さて、山本薩夫の作品でもう一本、印象深い作品は「べトナム」です。

 誰かが駆けてくる・・そして爆発音、ふりかえりにっこり笑うベトナムの少女、その笑顔が画面いっぱいに映し出されて映画は始まりました。あの笑顔、強烈でした。きっとこの少女は不発弾の処理が任務だったのでしょう。

 当時私も、日本中に広がっていたベトナム人民支援の戦いの渦中にいました。

 「日本の基地労働者の座り込みで戦車が数時間動かなかった。何人のベトナム人の命が救われたことか。」来日したベトナムの大学のコンツム教授はこう語りました。宮城県の日本ベトナム友好協会を代表して花束を渡した私は、コンツム教授と堅い連帯の握手をさせていただき、自分たちの戦いに大きな意義と確信を持ったのでした。

 映画「ベトナム」での、信じられないほどの人民の明るさに、私はベトナムの勝利の確信を深めました。事実、1975年春、侵略者アメリカは無条件に撤退、ベトナムは歴史的勝利を勝ち取ったのでした。

「野獣たちのバラード」

 民主会館の事務所の赤字財政解消のために、ひと儲けしようと小屋掛けした映画が「野獣たちのバラード」でした。

 ミハイル・ロンム監督のソビエト映画で、ナチス・ヒトラーの事実の映像を編集した作品。いままで何回か小屋掛けを経験しましたが、「野獣たちのバラード」は特別な作品です。

 ひとつは、これほど恐ろしい戦慄を感じた映画は過去になかったことです。そしてもうひとつは、戦う労働者の世界を垣間見るチャンスを、初めて与えてもらうきっかけになったからです。配券、集金で訪れた組合事務所での労働者の堂々としたたくましい姿に、学生であった私は尊敬と憧れを抱きました。私ももうすぐ仲間になるのだ、と働くことへの緊張感を持ったのでした。

あの戦争はなんだったのか

 これらの映画は今観ても、少しも古さを感じさせない。あの戦争は誰のためのものったのか、人間の命ほど尊いものはないのに、と問いかけています。

 しかし今、あの戦争の時代とまったく違うのは、世界の平和への躍動する動きです。

 アメリカに追随していたのでは、日本はアメリカと一緒に孤立して、世界から見放される運命です。

 国内では、広がり始めた「九条の会」に連帯して、さらに憲法を守りぬく国民運動の輪を広げることが、私たちが今を生きている証を刻むこと、世界の平和を願う人との連帯を強くすること、力が湧いてきます。

(04・9・18  昨年の秋に書いたものです)