中国へ―平和と友好の旅

観光気分も味わってみる

予定になかったコース

 故宮の見学は初めの予定にはなかったのだが、北京に来て一般の観光ツアーでは必ず入っている故宮に行かないというのも…というわけで急きょ現地で予定変更となったコースだ。

 ここまでもかなりハードな日程で、お土産をゆっくり選ぶ時間もままならず、「買い物は三十分だけですよ。」の声にせかされて直感的に選ぶような具合であったから、コースの変更によって「戦争」からちょっと離れ、観光気分になれて、大いに気分転換できた。

故宮

故宮にて 右奥の黒い器は防火用水

 故宮は、紫禁城と呼ばれた明・清時代の宮殿で、二十年近くの年月をかけ一四二〇年に完成している。七十二万平方b、全長八`と言う恐ろしく広い宮殿で、ちゃんと見ようとすると三日はかかるというところ、数時間で見学した。

 印象に残ったことを二つ、三つ書いてみると、まず、あちこちにおいてある大きな鉄製の水カメ。防火用水とのことだが、カメは石造りの炉のようなものに乗っている。北京は寒暖の差さが厳しく、冬は氷点下三十度近くにもなるので、用水が凍らないように火を焚く構造になっていたのだ。

 更に、故宮の中には、トイレを一箇所も作らなかったというからびっくりした。(観光用はありました)排泄物を紫禁城の中にはおかないためだが、ではどうするのか。大きな壷型の便器を使用し、毎日それを宮殿の外に運び出したそうだ。宮殿にはどのくらいの人が住んでいたのか、いづれにしても相当な人数だから、運び出す仕事をするのは大仕事であったろう。私は、それをどこで始末したのか、そこに興味をそそられたが、残念ながら知ることができなかった。

 皇后の便器は金で出来ていて、陳列されていたものをみたが、高さのある細長い壷だった。

石畳の深さは七・五メートル

 故宮の正面は石畳の広場になっている。この石畳の深さが七・五bもあるというから、これにはまたびっくりしてしまった。地面を掘って襲ってくるかもしれない敵に備えて、地下深くまで石を敷き詰めたのだ。

 この後見学した、万里の長城の現在残されているほとんどの部分は、故宮が建設された明の時代に増改築されたものだから、明王朝も北方民族の侵入には万全の備えをすると同時に、ほかにどんなやからが命をねらうかも知れないと心配したのだろうが、ここまでやるのかと、そのスケールの大きい発想に感心してしまった。

 感心したもうひとつは、長さ十六・五b、幅三b、厚さ一・7bの大理石を運んだ方法である。映画「ラスト・エンペラー」で、三歳で皇帝になった溥儀が石の階段を下りてくるシーンがあるが、彼が踏んだ階段の真ん中に敷かれたすばらしい彫り物のある大理石がそれだ。

「どんな方法を使ったのでしょう。」

 ガイドさんの質問に、「氷かな。でも、どのようにして」と。

 なんと五百bごとに井戸を掘って水をまいて凍らせ、滑らせて運んだのだ。あんなに巨大な石を運ぶために厳寒の冬、一体どれほどの人民が駆り出されどれほどたくさんの命が奪われたのだろうか。権力の行った事業のスケールに驚き、実際の労働を強いられたひとびとに思いをはせた。

二つの光景

露店の床屋さん

 ひとつは面白い風景。故宮の入口まで古物の露店が並んでいた。さまざまなものがおいてあって、ゆっくり見れば掘り出し物があったかもしれない。しかし、眺めている暇はなかった。目についたものでは、「毛沢東語録」が結構出されていたこと。どんな人が買うのだろうと思った。歴史の過去の産物として、保存しておく価値はあると思うが。

 珍しい風景を見て、思わずシャッターを押した。路上での床屋さんだ。人通りの中で平然と散髪していた。

 「あの人たちも床屋の免許があるのですか」と湯さんに聞いたら「なくてもいいのです」とのこと、お店をはった散髪やより安いのだろうか。外の空気に触れながら、気持ちよさそうだった。もうひとつは、気が重くなった風景。

 足の悪いおじさんが、赤ん坊を背負って、おそらく亡くなったことを意味すると思うが、伴侶の写真を胸にぶら下げて、物乞いをしていた。もう一人、多分ポリオの後遺症と思われる足の悪い十歳くらいの男の子もまた、杖をついて物乞いしていた。

 少年の心情を想像すると、あわれでならなかった。子どものころからこのようなことをしていては、人間の誇りを失ってしまうと、見ているのが辛かった。中国共産党が十六回大会で掲げた、民のための政治の発展に期待をしたいと思った。

 日本の子どもは違った立場で、人間の尊厳が奪われている。「私はだめ人間」と、どんなに多くの子が自信をなくしていることか。激烈な競争社会の教育の中で。過去と現在を同時に見た故宮を後にして、いよいよ、かねがね一度は見たいと思っていた、万里の長城へとバスは走る。